二度目の人生が始まる前の日
このあと番外編3.4話続きます
(……無理だろ、これ……)
意識が薄れていく。音が遠のき、視界の端で燃える戦場がゆっくりと滲んでいった。
そして最後に、何も考えられなくなったまま――ユウの意識は途切れた。
――――――
「……っ、痛っ……!」
脇腹に鋭い痛みが走り、反射的に身体が跳ねる。
「いたいって!やめろよ母さん!」
口が勝手に動いていた。
さっきまでの戦場の重さも、血の感触も、すべて一瞬でほどけていく。
そして次に目を開けたときには――
「……また、この夢か」
一瞬だけそんな考えがよぎるが、すぐに否定する。
違う。これは夢じゃない。痛みも、匂いも、音も、全部が生々しく“現実”だった。
視界がゆっくり切り替わる。蛍光灯の白い光、並んだ陳列棚、買い物かごの金属音。ここは病院でも戦場でもない。スーパーの食品売り場だった。
カートの横で、母さんが俺の腹を軽くつねりながら呆れたように言う。
「ほらほら、見てこれ」
横を見ると、母が小さな袋を持ってこちらを見ている。
「これいる? ▼?%もカイトもグミ好きでしょ?」
「いらないって……俺たちが好きなのは炭酸系だって、前にも言っただろ?」
自分でも驚くくらい、普通の声が出る。戦場の記憶と噛み合わない“軽さ”だった。
母は少し首を傾げる。
「そうだっけ? でもカイトが欲しいって言うかもしれないし、とりあえず一個買っておくね」
いや、確定でいらないやつだろそれ。
店内は開店直後で、客はまだまばらだった。静かで、やけに空気がゆるい。
そのせいか、母さんのテンションだけが妙に浮いている。
「▼?%! ほら、あそこ!」
指さした先には試食コーナー。
「ハンバーグよ! こういうのって食べるのが礼儀でしょ!」
「そんな礼儀聞いたことねぇよ」
言い終わる前に、母はすでに試食コーナーへ突撃していた。
「はいどうぞ〜。よかったら食べていってくださいね。今焼きたてなんですよ」
店員に渡された小さな紙皿を、母は当然みたいな顔で俺にも押しつけてくる。
「ほら、どう? おいしい?」
店員の営業スマイルの横で、母は目を輝かせながら返事を待っていた。
「……うーん、まあ普通にうまい」
その瞬間、母の目がカッと輝く。
「じゃあもっと食べなさいよ。どうせタダなんだから遠慮する意味ないでしょ」
「は?」
次の瞬間、爪楊枝に刺さったハンバーグが次々飛んでくる。
ぽいっ。ぽいっ。ぽいっ。
「んぐっ、ちょ、まっ、もういいって!」
「まだいけるでしょ? ほら口開けて」
「いけねぇよ! 俺の胃袋は無限じゃねぇんだって!」
気づいた時には、試食コーナーのハンバーグはきれいに“消滅”していた。
「……最後の一個も消えたわね。うん、いい仕事したわ」
母さんは満足そうに言った。
俺は喉に残った肉の余韻を飲み込みながら、店内を見回す。
(……店員さん、ちょっと引いてなかったか?)
まあ今さらか、と小さくため息をついた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「結局ハンバーグ買っちゃったわね」
「もう買う流れだっただろ……店員さんの無言の圧、ずっと感じてたし」
そんなくだらないやり取りをしながら、買い物を終えた俺たちは店を出た。
夕方前の空は少し赤く染まり始めていて、風はまだ少し冷たい。
車に乗り込み、後部座席へ身体を沈める。
買い物袋の擦れる音、カーナビの小さな音声、信号待ちで止まる車のわずかな揺れ。
どれも特別じゃないのに、妙に落ち着く。
(……こういうの、久しぶりかもな)
そんなことを思っていると、運転席の母さんがふと思い出したように口を開いた。
「そうだ。明日、仕事休みにするから」
「え、珍し」
「忙しい時期じゃないし。私の誕生日なんだから、ゆっくりするわ」
「あー……そっか、明日か」
言ってから、少しだけ間が空く。
「……明日も仕事なんでしょ?」
「うん、まぁいつも通り」
「毎朝カイトに駅まで送ってもらってるんだから、ちゃんとありがとうって言いなさいよ?」
「うん、分かったよ」
バックミラー越しに母さんが小さく笑う。
車内には静かな時間が流れ、赤信号と夕焼け、流れていく街並みだけがゆっくりと過ぎていく。
俺は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……母さん」
「んー?」
運転席の母さんは前を向いたまま、軽く返事をする。
赤信号の光が横顔をぼんやり赤く染めていた。
「……本当に、ごめん」
「……何が?」
「誕生日、一緒に祝えなくて」
言った瞬間、自分でも変なことを言ってると思った。
まだ明日になってすらいない。
ケーキだって買ってないし、プレゼントも用意してない。
なのに――なぜか、“もう間に合わない”みたいな焦りだけが胸の奥に張り付いて離れなかった。
「まだ親孝行もしてないのにさ」
自分でも何をそんなに焦っているのか分からなかった。
「毎日仕事ばっかで……送り迎えも、飯も、洗濯も……全部当たり前みたいにしてもらって……」
後部座席で拳を握ると、言葉にした瞬間、胸の奥が急に苦しくなった。
「俺、まだ何も返せてない」
車内が少しだけ静かになる。ウインカーの音だけが、やけにゆっくり響いていた。
母さんは少し黙って、それから小さく笑う。
「何それ。急にどうしたの」
その声は、いつもと変わらなかった。少し呆れていて、それでもどこか優しい。
「気持ち悪いわねぇ」
「……ひど」
「だって▼?%がそんなこと言うなんて珍しいんだもん」
母さんはバックミラー越しにこっちを見て、少しだけ目を細めた。
「でもね」
赤信号が青へ変わる。車が静かに走り出す。
「親って、“返してもらうため”にやってるわけじゃないのよ」
街の光が窓の外を流れていく。
「元気でいてくれるだけでいいの。ちゃんとご飯食べて、たまに笑って、生きててくれれば、それで十分」
その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。
「だから親孝行なんて、もっとずっと後でいいの」
母さんは少し照れくさそうに笑った。
「老後に高い寿司でも奢ってくれればそれでいいわ」
「ハードル低いな……」
「あと温泉」
「増えてるじゃん」
そして母さんは楽しそうに指を折り始めた。
「部屋付き露天風呂でしょ。送迎付きで、朝はバイキング。夕飯は豪華なやつがいいわね。せっかくだから二泊三日ね」
「一気に言うな。完全に旅行会社のパンフレットじゃねぇか」
「だからちゃんと働きなさい」
「結局そこか」
母さんは楽しそうに笑った。
その笑い声が妙に心地よくて、俺もつられて少しだけ笑う。
「……そのうちな」
「ん?」
「そのうち連れてくよ」
母さんは小さく肩をすくめた。
「はいはい。期待しないで待ってるわ」
「絶対信用してないだろ」
「だって▼?%だし」
「ひでぇな」
いつもの会話。いつもの空気。
狭い車内に、どうでもいいのに妙に落ち着く時間だけが流れていく。
(……あの時は、当たり前に明日が来ると思ってた)
寿司も温泉も。親孝行なんて、いつでもできると思っていた。
――もう二度と、あの頃には戻れない。
そう分かっているのに、車内の静けさだけがやけに優しくて、余計に胸が痛い。
アクセルの微かな揺れ。ウインカーの規則的な音。信号待ちのたびに変わる夕焼けの色。
ただそれだけのはずなのに、どうしてこんなに残酷なんだろうと思う。
その瞬間、視界の端で白い光が弾けた。
(……母さん)
呼びかけようとした声は、最後まで形にならなかった。
――ああ、まだ何も返していないのに。
頼む。あと少しだけ時間をくれ。
一言でいい。ちゃんと伝えたいことがあったんだ。
それなのに、時間だけは容赦なく進む。
白い光が視界を埋め尽くし、母さんの姿も、夕焼けも、街並みも、すべてがその中へ溶けていった。
そして――
俺の意識は、強烈な光に飲み込まれた。
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■とある転生者の記憶
もう、この世界で目覚めてからどれくらい経ったのだろう。
血の臭いにも、怒鳴り声にも、人が死ぬ光景にも慣れてしまった。慣れたくなんてなかったのに。
前世の記憶は少しずつ薄れている。母さんの顔も、カイトの声も、住んでいた街も、今では霧の向こうだ。
それなのに、どうでもよかった記憶だけは妙に鮮明だった。
スーパーの試食コーナー。いらないグミを買おうとしていた母さん。無理やり食わされたハンバーグ。
そんなくだらないことばかり思い出せる。
もっと大事なことがあったはずなのに。
最後に何を話したのか。母さんが最後にどんな顔をしていたのか。それはもう思い出せない。
なのに、試食のハンバーグの味だけは覚えている。
くだらない。本当にくだらない。でも――もう新しい思い出は増えない。
だから俺は、そのくだらない記憶に縋るしかない。
思い出せば思い出すほど、戻れない現実だけが胸を抉る。
……こんな優しい夢なんて見せないでくれ。
思い出したいものは思い出せないくせに、忘れたくないものだけが少しずつ消えていくんだから。
母さんの顔が、もう思い出せない。
カイトの声も曖昧だ。
あと少し。
あと少しで何かを思い出せそうなのに。
届かない。
消えていく。
消えていく。
待ってくれ。
やめろ。
まだ――
思い出せない。
思い出せない。
思い出せない。
思い出せない。
母さんの顔が。
思い出せない。
カイトの声が。
思い出せない。
大切だったはずなのに。
思い出せない。
――何を忘れているのかさえ、もう分からない。
今回の話は、第1話「もう一度生きるなら」で起きた交通事故の「前日」を描いた話になります。
弟・カイトの運転する車の中で過ごす、何気ない日常。
母との他愛もない会話や、買い物の帰り道――そのすべてが、事故の直前に存在していた“最後の普通”です。
そして事故が起きた日は、母の誕生日でもありました。
何気ない一日が、どれだけ取り返しのつかないものに繋がっていたのか。
その対比として、この話を入れています。
少し重い構成ですが、「当たり前の時間は当たり前に続かない」というテーマを軸に書いています。
読んでいただきありがとうございました。
――最後にひとつだけ。
これは本当に、“夢”だったのでしょうか。




