逃げ場の先に、赤い影
みなさん、いつもお読みいただきありがとうございます。大好き//
肺の奥が焼けつくように痛んでいた。
息を吸うたびに熱を持った空気が喉の奥を引っ掻くように入り込み、乾ききった気道がひび割れていくような感覚さえあるのに、それでもユウは足を止めなかった。
「……止まるな、止まるな……!」
自分に言い聞かせるような声が、風に混じって消える。
止まれば終わるという理解が、もう思考ではなく身体そのものに染みついてしまっている。
背後では、まだ戦場の音が遠くに残っていた。
剣戟の甲高い音、怒鳴り声、断末魔。
そしてそれら全部を押し潰すように、ときおり響く異質な衝撃音――巨大な戦鎚が地面そのものを叩き砕く、あの鈍く重い轟音だけが、距離を離してなお妙にはっきり耳へ残り続けている。
「まだ……追ってきてんのかよ……!」
どれだけ走ったのか、自分でも分からない。
「足が震えて……もう無理だ……!」
逃げろ。とにかく生き延びろ。
頭の中ではそれだけが何度も繰り返され、足は半ば反射みたいに前へ動き続けていた。
「……くそ、ほんとに最悪だな」
乾いた笑いを漏らしながら、それでもユウは走り続ける。やがて視界の先に木々の影が見え始めた。
「……森でしばらく隠れていくか……」
小さな林が輪郭を持って浮かび上がると、ユウはほとんど反射みたいにそちらへ進路を変えた。
木々の手前で、ようやく足が止まる。
膝に手をつき、肺の奥に溜まった熱を吐き出すように息を零す。
「はぁ……はぁ……っ……やばいな、マジで限界だって……」
冷たい空気が逆に喉を刺すように入り込み、今まで無理やり押し込めていた疲労が一気に身体へ押し寄せてくる。
「……ここで少しだけ休む……頼むから、何も出てくるなよ……」
脚は鉛みたいに重く、肺はまともに酸素を取り込めず、視界の端までじわじわ暗くなり始めている。それでもユウは木へ身体を預けるのを堪え、崩れそうになる膝へ無理やり力を入れた。
「……まだ、終わってない」
掠れた呟きは、自分でも驚くほど弱々しい。
だが、まだ立っている。追撃の音も聞こえない。
(……もう、追ってきてないよな?)
そう思った瞬間だった。
「脱走兵かしら。それとも迷子?……随分ボロボロね」
背後から、不意に女の声が落ちる。軽い調子の声なのに、その一言だけでユウの背筋が反射的に強張った。
(……気配が、なかった)
《気配察知》にも引っかからない。その事実だけで、嫌な汗が背中を伝う。
ゆっくり振り返ったユウの視界に映ったのは、黒い鎧を纏った赤髪の女だった。二十歳前後に見える若さだが、その立ち方が明らかに異質だった。
鈍く光を吸い込む黒い装甲は無駄なく身体へ沿い、重装のはずなのに不自然なほど隙がない。そして何より、その場へ立っているだけで空気が静かに張り詰めていく感覚があった。
鎧には赤黒い血がべったりと付着している。
乾いた血、まだ湿った血、飛び散った肉片の跡まで混ざっていて、この女がついさっきまで“殺す側”にいた存在だということが一目で分かった。
槍も同じだった。
細身で洗練された武器のはずなのに、穂先から柄にかけて血が広く飛び散り、拭った形跡すらないせいで、武器というより使い慣れた処刑具みたいに見える。
そして、その穂先が自然な動作でユウへ向けられた。
「見てたけど、正直もう少しで倒れると思ってたんだよね」
「呼吸も乱れてたし、足も限界手前。あと少し走ってたら、そのまま前につんのめって倒れてたんじゃない?」
軽い口調だったが、それは煽りではなく、本当に見たままをそのまま言っているだけの声だった。
ユウは荒い呼吸を整えながら、視線を逸らさずに答える。
「……まあ否定はできないな。走り続けてたら、そのうち倒れてた」
女は「ふーん」と小さく息を漏らした。
その瞬間、槍の穂先がわずかに揺れる。構えを緩めたように見えて、実際は“いつでも殺せる位置”へ自然に入り直していた。
女は数秒、黙ったままユウを見ている。乱れた呼吸、震える脚、限界寸前の疲労。それでも視線だけは逸らさず、剣も手放さない。
やがて女はユウを一度見下ろし、少しだけ視線を落として言った。
「その剣、ずっと構えてて疲れない?」
軽い問いだった。戦場というより、雑談の延長のような声。
だがユウはすぐには答えない。呼吸を整え、短く言った。
「……疲れるに決まってるだろ」
女は小さく笑った。
「じゃあさ、少し休むなら、その剣下ろしたら?」
空気が一瞬だけ緩む。だが、それは緩んだように“見えるだけ”だった。
ユウは視線を外さず、低く答える。
「下ろした瞬間に殺されるなら、選べない」
女は一拍置いてから、静かに続けた。
「なに、最初から“逃げ切れた”なんて思ってなかったの?」
くす、と笑う。
「普通、ここで私に会ったら、命乞いするか逃げるかのどっちかなんだけどね」
「命乞いしたら見逃してくれるのか?」
「んー……ちょっと考えるけど、多分殺すかな」
「意味ねぇな……」
「だって敵だしね」
あっさり返したあと、女は槍をくるりと回し、手の中で重心を確かめるように握り直した。
「でもさ、無駄に死にたがらないやつ、嫌いじゃないよ。むしろ、そっちの方が好きかも」
そこで女は少しだけ目を細める。
「ただ――若いね。戦場、初めてでしょ?」
聞き方は軽い。なのに、その一言だけで誤魔化しも嘘も通らない場所まで踏み込まれた気がした。
ユウは一度だけ視線を外し、すぐ戻す。
「……初めてだ」
「気づいたらここにいて、そのまま前に出されてた。慣れる暇なんてなかった」
女が黙ったまま聞いていたので、ユウも止めずに続けた。
「選べるなら逃げてた。けど、選ばせてもらえなかった。それだけだ」
風が抜けるような静けさが落ち、女の視線がほんの少しだけ変わった。
「……そっか」
返事は短い。だが、さっきより僅かに声の硬さが薄れていた。
女は槍を肩に乗せ、小さく息を吐く。
「やっぱグレイロードって、そういう使い方するんだ。兵を数で潰すみたいに前へ出すんだね」
「そっちも同じだろ。結局、人を殺してる側なんだから」
少し棘のある返しだったが、女は気にした様子もなく肩を竦めた。
「まあ、それはそうだね。戦場だし」
そして、そのまま槍を持ち直す。指先で滑らせるように柄を回し、ほんの僅かに重心を落とした瞬間、空気が変わった。
会話していた空気が剥がれ落ち、代わりに肌へ突き刺さるような緊張だけが残る。
「……でさ」
女が一歩踏み出す。たったそれだけで、距離が急に近づいた気がした。
「同情はするけど、それとこれとは別なんだよね」
穂先が静かにユウへ向く。
「ここで会った以上、見逃す理由もないしね」
ユウは無意識に剣を握り直し、指に力が入りすぎて痛む。呼吸も浅く、《危険察知》が鋭く反応し続けていた。
(……来る)
空気が変わる。さっきまで会話していたはずなのに、今はもう完全に“殺し合いの距離”だった。女が静かに目を細める
「本当はさ、見逃してもよかったんだよ、君のこと」
槍の穂先は微動だにしない。
最初から心臓を貫く軌道だけが決まっているみたいだった。
「まだ子供だし、頭も回るし、動きも悪くなかった。それに――」
「……あのグラムから逃げ切りかけた時点で、正直ちょっと気に入ってるんだよね」
軽い調子だったが、その言葉には妙な現実味があった。この女は本当に“いつでも殺せる側の人間”としてユウを見ている。だからこそ、その評価は逆に薄ら寒い。
「だから普通なら、見逃してたと思うよ」
「でも――今は、そういう気分じゃないんだよね」
落とされた声と同時に、空気ごと押し潰されるような圧が広がる。
殺気というより、“殺すことをもう決め終えている側”の静かな確信だけが、その場に満ちていった。
《危険察知》が悲鳴みたいに反応する。
次の瞬間、女の姿がぶれた。
地面を蹴る音より先に、黒い穂先だけが一直線に視界へ飛び込んでくる。
(逃げるか、戦うか――)
選択肢を並べ終える前に、女の足がさらに深く踏み込まれた。
その瞬間、ユウは答えではなく、“決断そのもの”を迫られていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■ とある兵士の記憶 (ep.20 使い捨ての命 より)
俺は帝国の連中に故郷を滅ぼされた。
小さな町だった。豊かではなかったが、妻と子供がいて、それなりに幸せだった。
だが全部、壊された。
帝国兵は笑いながら家に火を放ち、逃げる人間を斬った。帰った時には、妻も子供ももう冷たくなっていた。
だから俺は剣を取った。
帝国と戦うアルデン公爵家の力になりたかった。薪運びでも雑用でも死兵でもよかった。少しでも帝国と戦えるなら、それでよかった。
ちょうど兵士の募集が出ていた時期だった。戦が続いていて人手が足りなかったらしい。兵士になるのは簡単だった。
槍の持ち方を教わり、剣を振り、泥の中を走る。そうして訓練を受けながら、戦の日を待った。
---
やがて俺たちは、グレイロード家との戦へ駆り出された。
リーデル平原を巡る、三年続きの消耗戦だった。
本音を言えば、帝国兵と戦いたかった。
だが上官は言った。
「戦争も、もう長くは続かん。今回で決着がつくはずだ」
だから俺たちは、それを信じて戦場へ向かった。
---
戦場は地獄だった。
泥と血と叫び声の中で、何人斬ったのかも分からない。六人か、七人か。敵を斬ってはまた斬り、腕の感覚は痺れ、呼吸は焼けるように熱くなっていた。
そして、疲れ果てたところを突かれた。腹に刃が入る。
「――っ、が……!」
息が詰まり、視界が揺れる。
「くそ……まだ……!」
熱い感触のあと、一気に力が抜け、そのまま地面に倒れた。意識が遠のいていく。
---
次に目を開けたとき、全身が痛んでいた。もう助からないとすぐに分かった。
空は暗くなりかけ、戦闘は終わっていた。周囲では敵兵の死体に混じって、ボロ布のような服を着た連中が武器や鎧を回収している。生き残りか、村人か、戦場漁りか。
どうでもよかった。
(……このまま死に切れるかよ)
せめて一人。誰か一人くらい道連れにしてやる。
そう思った瞬間、目の前に小さな影が立った。
ガキだった。細い腕に、棒切れみたいな棍棒を握っている。
クソっ。ガキか――。
血を吐きながらも、剣を握り直す。
「一人でも……道連れにしてやる……! ここで終わるくらいなら、ガキだろうが関係ねぇ……!」
その瞬間、少年が小さく呟いた。
「――加速」
次の瞬間、視界から消えた。
気づいた時には、棍棒が異常な速度で顔面に叩き込まれていた。
「――がはっ!?」
骨が軋む音とともに視界が揺れ、地面に叩きつけられる。口の中に血の味が広がった。
クソ……こんなガキにやられるのかよ。
ぼやける視界の先で、少年がこちらを警戒したまま見下ろしている。その目は戦場で何度も見た、生きるために人を殴る目だった。
(昔の俺も……あんな顔だったのかもしれねぇな)
遠くで風が草を揺らす音がした。リーデル平原。何万人も死んだ場所。
その中の一人として、自分もここで終わる。
結局、帝国とは戦えなかった。
妻の仇も、子供の仇も、何一つ返せなかった。
せめて死ぬなら、帝国の兵を斬って終わりたかった。
赤く染まった夕空を見上げながら、意識が薄れていく。
「……すまねぇ」
「……俺も、すぐそっちへ行くからな」
かすれた声だけが残り、やがて途切れた。
男の意識は、そのまま静かに沈んでいった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※下記引用 ep.20 使い捨ての命 より
(男は笑っていた。血を吐きながら、それでも口元だけは歪に吊り上がり、まるで最初からこれが目的だったとでも言うように、壊れかけた身体を無理やり前へ押し出してくる。
「一人でも……道連れにしてやる……! ここで終わるくらいなら、ガキだろうが関係ねぇ……!」)
■この兵士の固有能力
■固有能力
《残火の生》
■効果
「死にかけの状態」になるほど身体能力が一時的に上昇する
“生存本能”を燃料にして、一度だけ限界を超えた行動が可能
死ぬ直前の一撃だけ異常に重くなる(執念の反撃)
■制約
発動中は肉体の損傷を無視するため、終了後ほぼ確実に死に近づく
“生き延びるための能力ではなく、死ぬ直前にしか意味がない”
一度使うと回復しても再起不能に近い疲弊が残る
※そしてこの男は、最後まで自分の固有能力に気づくことはなかった。
最近「とある○○の記憶」という形で短いエピソードを追加し始めましたが、面白いでしょうか?
よろしければアドバイスをいただけると嬉しいです。
冗長に感じるようでしたら、今後は入れない形にもできますので、ご意見いただけると助かります。




