あたしを守ってくれる腕
宇佐美は母方の苗字だ。
父は、遠野(遠野)という。
あたしは父と一緒にいるときは、遠野 心という名前だった。
だから、ウサコなんて呼ばれる要素はどこにもないけれど、
おさげのあたしをからかって、父だけが[ウサギ]と呼んだ。
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「ウサギ」
あたしを、[ウサギ]と呼ぶのはこの世でただ一人だ。
あたしはこの名前が嫌い。
嫌い、いうか、そもそも怖い。
その名で呼ばれるときはいつだって。
あたしは校舎を背にして校門の前で、固まった。
「ウサギ」
聞きなれた声で、あたしを呼ぶ声がする。
「お父さん」
あたしは愕然として、父の姿を見つめた。
幼い頃は、優しい父だった。
両親が離婚したとき、あたしはまだ3歳だったけれど、父に引き取られることを嫌だなんて思わなかった。
でも、1年も経たないうちに、父は豹変した。
最初の頃は、酔うとあたしは殴った。
しばらくすると、父は酔っていない時間のほうが短くなっていった。
酔っているのか酔っていないかのもわからない。
ただただ、父に殴られた。
恐怖に脅えて、父を憎もうとしたけれど、憎めなかった。
父は殴るたびに、言った。
「おまえが良い子なら、俺も殴る必要はないんだ」
そうか。
あたしがいけないんだ。
良い子でいなくちゃ、良い子でいなくちゃ
繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせた。
だけど、父の暴力は止まらなかった。
父の暴力は、あたしが父の元から逃げ出す14歳の春まで続いた。
あたしは父が怖かった。
父の大きな手が怖かった。
振り上げた太い腕が怖かった。
地響きがするほど太い声で怒鳴られることが怖かった。
蔑んだような目が怖かった。
“ウサギ”と呼ばれることが怖かった。
「元気していたか?」
目の前で、父が気まずそうに、必死であたしに話しかけている。
あたしは何もできずに固まっていた。
返事もできない、逃げることもできない。
しばらくして、あたしの口から飛び出してきたのは短い疑問。
「どうして?」
どうして、ここにいるの?
どうして、会いにきたの?
どうして、あたしの名前を呼ぶの?
どうして、どうして、どうして?
「おまえに会いたくなってな」
照れたように笑う父に殺意に近い、燃え滾る感情を覚えた。
だけど怒りはすぐに収束して、あたしの体は氷のように冷え切ってしまう。
ぶるぶると震えて、おさえることができない体をあたしは両腕で必死で抱きしめた。
あたしの異常になど、目の前の男は気づくこともない。
へらへら笑って、あたしを見つめている。
どうして、どうして、笑えるの?
あたしはいまだに、こんなに苦しんでいるのに。
いや、いや、いや、いやぁぁぁぁ!!!
「心!」
不意に、背後からきた誰かが、あたしの腕を掴んだ。
制服の上から腕を掴まれた手の感触には覚えがあって、あたしは救いを求めて顔を上げた。
やっぱり、アルマジロくんだ。
彼はあたしの腕を掴むと、突然、走り出した。
スピードをあげて、父の横を駆け抜けていく。
「あっ」と短い父の声が聞こえた気がした。
だけど、アルマジロくんは決して、足を止めようとはしない。
そのままの勢いで、帰り路を走り抜ける。
何度も何度も転びそうになりながら、だけど、あたしはアルマジロくんに引きずられるようにして走った。
我が家が見えてくると、アルマジロくんは、あたしの腕から手を離して、玄関のドアを乱暴に叩いた。
「うるせぇ!近所迷惑だ!」
すぐに兄が中から出てきた。
アルマジロくんはあたしの腕を掴むと、玄関の中にあたしを放り投げた。
玄関に入ると、安堵であたしは地べたに座り込んでしまった。
安全なはずの玄関なのに、あたしの身体はまだ、がたがたと震えている。
「ウサコ、どうしたんだ」
兄が真っ青な顔で、あたしを見下ろしている。
「すぐにバスタオルを持ってきてくれ!!大きなやつ!!」
アルマジロが兄に怒鳴った。
彼が怒鳴った声を初めて聞いた。
兄は一瞬、戸惑っていたが、異常事態であることを理解して、すぐにタオルを取りにお風呂場に向かった。
家にある一番、大きなバスタオルを兄は、アルマジロくんに手渡す。
何に使うんだろうってぼんやり、思ったら、広げられたそれは、あたしの頭の上からバサッとかぶせられた。
一瞬、真っ暗になった視界に、あたしが戸惑って、声をあげようとした瞬間
「もう大丈夫だから、心」
あたしはバスタオルの上からアルマジロくんの体温を感じた。
彼はバスタオルの上から、あたしをきつく抱きしめている。
「何も不安になることはない。俺は傍にいるから」
ふぇ。。。
あたしの口から、妙な声が飛び出す。
涙を流せなかったあたしの涙腺が一気に緩む。
「うわぁぁぁぁん」
あたしはアルマジロくんの体温を感じながら、大声をあげながら泣いた。
バスタオル一枚をはさんで感じたアルマジロくんの体温は、とても心地よかった。




