思い思いの後悔
好きな人に触れたいと思うのは自然なこと。
手を繋いだり、抱きしめたり、キスをしたり。
そんなこともできないあたしは、欠陥品だ。
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昨日の電話を後悔していた。
心を傷つけたくないし、あんなことを言いたかったわけじゃない。
口から飛び出した刃が、心を傷つけたことを自覚していて、俺は後悔に苛まれていた。
その日はほとんど眠れなかった。
結局、朝日が昇るよりも早く、起き上がった俺は、のろのろと身支度をした。
いつもよりも30分以上も早く家を出て、心の家ではなく、学校に向かった。
これ以上、心を傷つけるのが怖かった。
一日、屋上にも行けず、芝生にも出られなかった。
心に会う可能性のある場所には行けなかった。
俺は一日教室で、机に突っ伏して目を瞑り続けた。
だけど、眠れるわけがない。
目を閉じても、耳を塞いでも、心の昨日の声が聞こえてくる気がする
やめて、アルマジロくん
泣きそうな声で訴えてくる彼女を、なんで俺は責め立てたんだろう。
俺と心のボーダーラインなんて、すでに決まりきっていたのに。
「逢沢くん」
頭に靄がかかって、一日が終わったこともなんとなくしか、理解できなかった。
人の波に従って、校門をくぐったところで、俺は呼び止められた。
立っていたのは、心の兄貴だった。
「どーも」
校門の前で、堂々とタバコを吸っていた心の兄貴は、左手を上げた。
俺は訝しげに、眉をひそめて、心の兄貴を見る。
「何か、用ですか?」
俺は訊きながら、心臓がバクバクと音を立てているのを感じていた。
心に近づくなっって怒鳴られるのかと思った。
だけど、心の兄貴は笑って「これから時間大丈夫か?」と言った。
俺は心の兄貴について、近くの喫茶店に入った。
心の兄貴はヘビースモーカーらしい。
さっきから、タバコを手放さず、一本吸って、終わったらまた、一本。
次々と、タバコを咥えて火をつける。
「心が男性恐怖症になった原因は俺にも、あるんだ」
突然、心の兄貴がポツリと呟くように言った。
「俺と心の両親は、俺が8歳、心が3歳の時に離婚した。俺は母親に、心は父親に引き取られた。普通は逆可も知れねぇーけど、親父は心をめちゃくちゃ可愛がっていた。母は根負けして、心を親父に渡した」
心の兄貴は、一息つくと、紫煙を吐き出した。
「俺が心に再会したのは、それから18の時。心が中学に上がった年だった」
二人の前におかれたアイスコーヒーが、店内に入った空調が当たって水面が揺れる。
カランッと音を立てて、氷が水の中で転がる。
「俺ははっきり言って、心のことを忘れていた。妹なんて、気にもしていなかった。だから、ある日、突然俺の前に現れた妹に、すっげぇ驚いた」
心の兄貴は遠い目をする。きっと、昔のことを鮮明に思い出しているんだろう。
「心は親父に、虐待を受けていた。俺のところに逃げて来た時には、すでに手遅れだった」
俺はハッと息を呑む。
「あいつは男というもの、すべてに脅えていた。今でこそ、男ともしゃべれるようになったけど、昔なら、目を合わせることもできなかった。俺のところに逃げてきたばかりの妹は、俺にも頼れずに、毎晩一人で泣いていた」
心の兄貴は、テーブルの上でギュッとこぶしを握る。
きつくきつく握られたこぶしに、心の兄貴の深い悲しみが見えた。
「母はあいつの傷を知ると、すぐに法的な手段に出た。法廷はあっさりと、母親の親権を認めた。だけど、それで解決になるわけがねぇ。あいつはいまだに、男が怖くて、好きな男にも触れられねぇ」
相槌すら軽く聞こえてしまう気がして、俺は黙って彼の話を聞いた。
「飯もろくに食えねぇ。医者は精神的なもんだっつーけど、食えるようになる方法は教えてくれねぇ」
真は、ハッと乾いた笑いを漏らした。
「それでも昔よりは食ってるんだ。ちょっとずつ、それなりにな。あいつが俺のところに来たときは、力を入れたら折れそうなぐらい細かった」
俺は木のテーブルに目を伏せた。
ほら、見ろ。
俺はあいつの事情も知らずに、昨日あいつを傷つけた。
取り返しのつかないことをしたんだ。
「だけど、おまえは特別なんだと」
「はっ?」
俺はパッと顔を上げた。
「男が怖い、男に触れないウサコが唯一、触れるのが、おまえなんだ」
「心は俺にも触れられない。ちょっとしたことでも悲鳴を上げる。俺だって、ほかの奴と何も」
「ばーか」
心の兄貴がカラッと笑った。
俺は顔をしかめて、兄貴をまじまじと見つめた。
「おまえはあいつに触れてるじゃねぇーか。服の上からだって、ほかの奴が触れば、あいつはもっと震える」
「俺のときも、あいつの顔はすっげぇ強張ってる気がするけど」
俺の口から、弱気な言葉が漏れる。
「おまえ、あいつの髪、触れるだってな」
俺は、目をしばたかせて、心の兄貴を見た。
心の兄貴は、面白そうにケラケラ笑った。
「俺は、あいつの髪すら触らせてもらえねぇーよ」




