第12話
中御門大路の廃屋敷。正確には、大納言家が買い取って改修を予定している広大な別邸の敷地だ。
前回の騒動から息つく暇もなく、俺は頼道が徹夜で作成した完璧な書類の束を懐に忍ばせ、現地へと足を運んだ。
門の蝶番は錆びつき、庭には背丈ほどもある雑草が生い茂っている。
そこには、なぜか豪奢な十二単の裾を短くからげた藤原彰子が待ち構えていた。
「遅かったではないか、小野景継。事前の防犯指導とやら、私もしっかり見学させてもらうぞ」
「……なぜあなたがここにいるんですか」
「この屋敷の主は私の遠縁にあたる。私が口を利いてやったのだから、立ち会う権利くらいあるだろう?」
悪びれもせず言い放つ姫君に、俺は無表情のまま視線を逸らした。
面倒なクレーマー兼見学者が、また一人増えた。
「身分を理由に他者を見下すことはしない、というあなたの態度は立派ですが。業務の邪魔だけはしないでください」
「ふふっ、分かっている。自分の目で見て確かめるまでは納得しないのが私の性分でな。そなたのその冷淡な態度、嫌いではないぞ」
俺は内心で深くため息をつきながら、荒れ果てた屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。
夜が深まり、庭には異様な静寂が満ちていた。
虫の音すら聞こえない。空気が重く、肌にまとわりつくような湿気が漂っている。
葛葉が狙う結界の要所。差し戻され続けた始末書の発生源。
俺は支給品の分厚い笏を取り出し、書類の束を挟んで点検するふりをした。
「先輩、呪符の準備はよろしいですか。相手は結界を狙うほどの強力な怪異です」
同行した頼道が、筆を握りしめながら緊張した面持ちで周囲を見回す。
「必要ない。規定集の第三項、不法侵入に対する強制退去命令の準備だけでいい。お前は記録に専念しろ」
「相変わらず、そなたの仕事ぶりは面白いな。陰陽師の真似事すらしないとは」
彰子が目を輝かせて俺の手元を覗き込んでくる。
その時、庭の入り口から砂利を踏む足音が聞こえた。
「……こんな夜更けに、下級役人が何をしている」
扇子で顔の半分を隠した、最高級の狩衣。安倍泰長だった。
「泰長殿。夜間巡回ですか。ご苦労様です」
俺は事務的に頭を下げた。
「貴様に報告する義務はない。だが、この辺りは強い気配が……」
泰長の言葉が途切れた。
池の水面が唐突に黒く変色し、浮かんでいた水草が瞬時に腐り落ちた。
ブクブクと泡が立ち、周囲の温度が急激に下がる。
現れたのは、泥と怨念が凝縮されたような巨大な異形だった。複数の顔が表面に浮かび上がり、耳障りな叫び声を上げている。
結界の要所を破壊するために送り込まれた、特級のクレーマー怪異。
俺が笏を握り直そうとした瞬間、隣にいた泰長の様子が激変した。
彼の顔から血の気が引き、扇子を持つ手が微かに震えている。
それは、単なる臆病者の反応ではなかった。
泰長の目は、怪異の表面的な恐ろしさではなく、その奥底にある異常な呪力密度と、結界そのものを歪めるほどの空間干渉力を正確に捉えていた。
「……馬鹿な。この規模の呪力崩壊……防衛線が、保つはずがない……!」
彼は一瞬で状況の絶望的な計算を終えたのだ。
己の持ついかなる雅な呪術をもってしても、この質量には対抗できない。もしここで呪術戦を挑めば、周囲の空間ごと巻き込まれて消滅する。
「退避だ……! こんなもの、まともに相手にすれば都の半分が吹き飛ぶぞ!」
泰長は踵を返し、一切の躊躇なく猛スピードで暗闇の奥へと走り去った。
その背中は、エリートの矜持すら投げ捨てるほど、生存本能と索敵能力の極致に従っていた。彼のあの異常な逃走行動こそが、この怪異の真の危険度を何よりも雄弁に物語っていた。
「……あの男、また逃げたぞ。名門の陰陽師とはあのように足が速いものなのか?」
彰子が呆れたように呟く。
「危険予知の能力だけは、特級クラスのようですね。現場のことも知らないくせに、逃げ足だけは一流だ」
俺は淡々と返し、怪異に向かって一歩踏み出した。
「警告します。当敷地内への無断侵入、ならびに夜間の騒音防止条例違反です。直ちに退去しなさい」
怪異は俺の言葉など意に介さず、巨大な泥の腕を振り下ろしてきた。
風を裂く轟音。
俺は無表情のまま、手にした分厚い木製の笏を構えた。
呪力も何もない。ただの物理的な質量と速度。
踏み込みと同時に、笏を泥の腕に叩きつける。
鈍い衝撃音が響き渡り、怪異の腕が根元から弾け飛んだ。
「ギィィィィッ!?」
「警告はしました。これより、行政代執行に移ります」
俺は間髪入れずに踏み込み、怪異の胴体へ渾身の一撃を叩き込んだ。
特注の鈍器が泥の塊を貫通し、核となる部分を粉砕する。
断末魔の叫びとともに、怪異は黒い飛沫となって四散し、やがて空気中に溶けて消滅した。
「……見事だ! 何度見ても痛快極まりないな!」
彰子が扇を叩いて歓声を上げる。
「小細工なしの力業。そなたのその実務とやら、退屈な日常を吹き飛ばしてくれるわ」
「……遊戯ではありません。ただの業務です」
俺は笏についた泥を払い、懐から事後処理の書類を取り出した。
翌日。
大納言家から、特務記録係宛てに多大な感謝状と金一封が届いた。
「先輩、やりましたね。これで我々の部署の評価も……」
「馬鹿を言え。評価が上がれば、それだけ厄介な仕事が回ってくるんだぞ」
俺は頭を抱えた。
彰子の口添えもあり、貴族社会での俺の名声は不本意な形で高まりつつあった。
さらに、白妙を通じた裏社会の大妖たちからも、話の通じる役人として一目置かれるようになってしまっている。
独自のコネクションが築かれるのは、実務を円滑に進める上では役に立つ。だが、それは同時に、君しか頼めないんだという最も聞きたくない言葉を引き寄せる要因にもなる。
「俺はただ、定時で帰って温かい飯を食いたいだけなんだ……」
山積みになった新たな依頼書を前に、俺は深くため息をついた。
◆ーーーー◆
同じ頃、都の地下深く。
薄暗い空洞の中で、葛葉は苛立ちを隠せずにいた。
「……またしても、失敗したというのか」
彼女の足元には、粉々に砕けた黒い泥の欠片が散乱している。
結界の要所を確実に破壊するため、持てる力の多くを注ぎ込んだ特級の怪異。
それが、いかなる呪術の痕跡も残さず、ただ物理的な破壊力のみで消滅させられた。
「陰陽寮のエリートどもではない。あの下級役人……小野景継」
葛葉はギリッと奥歯を噛み鳴らした。
呪術の理から完全に外れた、小細工の通じない実務的な暴力。
それが、彼女の緻密な計画を次々と狂わせている。
「ならば、次はどう出る……。あの男の業務の範疇を超えるほどの、圧倒的な理不尽をぶつけるしかないのか」
追い詰められた葛葉の瞳に、暗い炎が宿る。
都の防衛線を巡る攻防は、いよいよ後戻りのできない領域へと踏み込もうとしていた。




