本当の望み
薄紫の瞳は恐怖に大きく見開かれて、震える手には指が白くなるほどの力を込められていたが。ディアナの視線が彼女に向いた瞬間、それはじわじわと諦めの色に変わる。
「リルディカ。あなたの望み──あなたは覇王に、誰の命を乞うたの?」
ああ。
リルディカは深く息を吐いた。女神に嘘もごまかしも通用しない。ゆっくりと、震える瞳が振り返って映したのは、たったひとりの青年で。誰もが、その答えをもう知っていた。
「──嘘だ……」
巫女の瞳が自分を見つめているのを、彼は咄嗟に否定してしまう。
そんなはずはない。王女たるリルディカが、国民を、父を、自らを、彼との恋を、全て犠牲にして。
「レイト。……リルディカが守ろうとしたのは、あなたの命よ」
ディアナの声は、レイトを愕然とさせた。
ならば。今まで自分が彼女に抱いていた憎しみは、見当違いのもので。彼女にしてきた仕打ちは、投げつけた心ない暴言は、どれも──
「リルディカ……」
微かに漏れた彼女の名前。その声に巫女の頬を伝って落ちたのは、誰にも見せないと決めたはずの、枯れ果てたはずの涙。
「私は浅ましいのです」
巫女は胸の前で両手を組んで、懺悔するように言葉を紡いだ。
「王女に生まれながら、私は国などどうでも良かった。誰が殺されようと、何を失おうと、構わなかった。ただ、ただレイトが生きていてくれれば良かった……!」
血を吐くような、苦痛に満ちた目で。彼女の、涙と共に吐き出された本当の望み。
「生き残ったレイトが苦しむと分かっていたけれど……!憎まれても、哀しませても、それでも私は」
レイトを愛しているの。
リンデルファを失ってから、初めてまっすぐに向けられた巫女の瞳と、その言葉にレイトは打ちのめされる。かつては彼も愛おしく想っていた、その瞳。
「そんなこと……今更……」
混乱に言葉を失う彼を、ヴァイスは舌打ちせんばかりに睨みつけた。はっきりしろ、とその顔が言っている。けれど、レイトは突きつけられた真実に耐えきれず、リルディカから顔を背けた。巫女の瞳が絶望に染まる。
そのとき。銀の魔導士シーファが、ハッと自らの手を開いた。その手のひらに浮かぶ文様が、青い光から赤く染まる。
「まずいぞ。魔竜が暴走し始めた」
その場の全員が、大きく息を吞んだ──。
「今、魔竜はどこに?」
セイがヴァイスに問うと、公主はリルディカを見る。巫女は先程までのか弱い様子など掻き消して、強い瞳で彼を見つめ返して頷いた。
「キャロッド領に待機させたままです。セインティアの魔導士様、どうか魔法を外して下さい」
「外してどうするの?あなたが犠牲になるの?」
ディアナの言葉に、リルディカは穏やかに微笑む。
「──それが私の巫女としての役目ならば」
小さな少女の姿ながら、彼女は確かに巫女だ。何もかも受け入れた様子で、リルディカはヴァイスの元へと近づき、公主はその片手を広げて巫女を迎え入れる。
「リルディカ」
思わずといったようにレイトが呼びかけるが、しかし言葉が見つからずに押し黙った。事情を知ったとはいえ、この2年間憎み続けてきた相手に、自分の感情が分からない。今まで何度も見て来た、ヴァイスに寄り添う幼い巫女の姿は、かつて彼が愛した彼女ではなくなってしまったと思っていたから。
そんなレイトの心を感じたのか、リルディカは彼にぎこちなく微笑む。
「いまさらでしょう?私の罪は消えない。あなたの言う通りよ、レイト。私を許さなくて良い。死ぬ覚悟は、あの時から出来ている」
彼の顔を見ていられなくて、巫女はそっと視線を逸らした。
「公主の巫女は魔竜の暴走に備えるための存在なのだろう?」
銀の魔導士は女神から受け取った剣を白い杖へと戻しながら問う。ヴァイスは彼へと頷き、もの言いたげな目を向けた。
「ならば、魔竜さえいなくなれば、巫女は不要なのではないか」
ヴァイスとリルディカが目を見開く。シーファの言葉に、ディアナも頷いた。
「ヴァイス様、あなたは魔竜などいなくても、もう列島を統べる覇王よね?」
「相手は四属性の魔竜だぞ。我らも討伐を考えなかったわけではない。が、あまりにも厄介で未だ歯が立たぬ。巫女の力で抑えているのが精一杯だ」
ヴァイスは彼らの考えを察して反論した。
「あら、でも私達はもともと、あの魔竜を退治しようとしていたのよね?セイ」
ディアナににこりと微笑まれ、話を向けられたセイは溜息を吐く。彼女の事だから、巫女を放ってはおけないだろうと思っていたが。
「……仕方ありませんね」
王子の言葉に、アランは眉を上げる。
「──ラセイン様。セインティアでのことならともかく、他領にまで赴いての魔物退治は賛成できません。あなたは世継ぎの王子で、そこの覇王はあなたに剣を向けた相手です」
次期王を守る近衛騎士だからこそ、言わなくてはならない。ディアナとセイは他国の事情に巻き込まれただけなのだ。自ら危険に首を突っ込む必要は無いだろう、と。
近衛騎士の言葉に、主は静かに視線を向けた。
「アラン、列島との貿易協定のために、視察に出る予定があっただろう」
「それは2ヶ月後で、しかも議会の承認が」
「前倒ししろ。承認はお前で充分だろう、フォルニール侯爵。大使としてアルレイ伯爵令嬢を連れて行く。僕の判断だ」
「──御意」
仕方ない、と言う顔でアランは息を吐く。けれどその瞳は最初から分かっていたかのように笑っていた。セアラ姫が彼の腕に触れて頷く。
「留守中はわたくしに任せなさい」
「すみません、姉上」
姉姫の言葉に、セイは感謝を込めて微笑んで。アランは婚約者の手に自分のそれを重ねて「頼みます」と囁く。シーファは面倒そうにそのやりとりを眺めていたが、弟子の少女に提案した。
「私は王国所属の魔導士ではないから、自由にさせてもらう。リティア、東の諸島に旅行にでも行くか」
「お師匠様とならどこへでも!」
リティアは嬉しそうに頷いた。
どんどん話が進んで行く周りにあっけにとられ、リルディカは目を見開いたまま状況を把握しようとしていたが。
セインティア王国の皆は、魔竜を退治する為にキャロッド公国まで来てくれると言うのか。しかもそれは、リルディカを助ける為に。
「皆さん……月の女神、私はそんなつもりでは。あなた方に迷惑をかけるわけには……」
戸惑いの目でそう訴えれば、ディアナが彼女に視線を合わせて。深い色の紫水晶の瞳で、巫女へ告げた。
「リルディカ。あなたの“助けて”って声、聞こえたわ。あれがあなたの本当の心でしょう?だから私はあなたを救いたい」
「──あれ、は」
彼女に思念を送った時に漏れてしまった、本当の声。リルディカ自身諦めていたはずだったのに、女神に届いていた声。
「お人好しだな、あなた方は」
ヴァイスが低く笑い、セイを見た。彼は自分の婚約者を見つめたまま答える。
「僕はディアナがしたい事を叶えるまで。あなたにはせいぜい恩を売って、貿易協定の際に返してもらいますよ」
ふ、と微笑んで。けれど──王子の瞳は、鋭い光を浮かべたまま。
「けれどもし、あなたが僕の女神を害することがあれば──容赦はしない」
他国の、知り合って間もない者までがリルディカの為に戦おうとしている。なのに何故、俺は動けない?
レイトは握りしめた拳に視線を落とした。
リルディカへの憎しみは、もう虚しい感情でしかない。けれど彼女を強く意識はしていても、これが以前のような恋情とは言えないのも確かだ。ならば、魔竜を倒し、リルディカが巫女でなくなれば、俺の答えは出るのか。
──少なくとも、このまま死なせることなど、できはしない。
レイトは舌打ちして、サングラスを外し、乱暴に胸へと引っ掛けて。自分を見ていた近衛騎士と目を合わせた。
「──いつまでも、あんたにおぼっちゃん扱いされるつもりは無いからな」
彼が微笑んで頷いたように見えたのは、気のせいじゃないはずだ。
*
本来、セインティア王国から東の最果てであるキャロッド公国に行くには、いくつかの方法がある。しかし海路、陸路は数ヶ月を要し、翼竜などの空路は危険で誰でも使えるわけではない。最も早いのはヴァイス達がセインティアを訪問する際に使った魔導転移門で、それでも数カ所の中継点を経由する必要があるのだが。
「私が魔竜につけた追尾魔法はまだ解けていない。それを門に見立てて一気に公国まで飛べる」
美貌の魔導士が白い杖をコン、と床に当てて言うと、イールが驚いたように彼を見た。
「そんな事できるの?──ていうか、もしかしてそれ見越して最初から追尾魔法を!?」
魔法は基本、純粋に目的を一つに絞らなければ構成できない。一度構成した魔法を他の目的へと歪めるなど高等中の高等魔法なのだ。本来ならば追尾魔法は対象の位置を知らせるためだけのもので、目的の場所に瞬間的に移動する転移魔法に変化させることなど容易には出来ないはず。
「そんなことまで出来るとはな。さすがは魔法大国セインティアということか」
ヴァイスはもはや呆れたように呟き、リルディカとレイトも目を見開いたまま話を聞いていた。
「それにしたって、銀の魔導士やり過ぎじゃない?魔法変換なんてまだ理論だけで、実践できた魔導士は居ないのに、それを転移魔法で試すなんて」
ただでさえ不可能に近いことを、上級魔法でやってのける、彼の魔導士としての能力は桁違い過ぎると。感嘆混じりに、けれど若干引き気味のイールに、シーファは腕組みをしながら答える。
「言っておくが、追尾魔法を転移門に変換する魔法を研究しておけと言ったのはラセインだぞ」
「何それキラキラの頭ん中どうなってんの?備えあり過ぎ、怖い」
褒められているのか怯えられているのかわからないイールの感想に、セイは苦笑して釈明する。
「ディアナがドフェーロに誘拐されたときに思いついたんです。ただ姉上含め城の魔導師達には難しすぎると匙を投げられましたが」
ディアナはかの皇帝に攫われたときの事を思い出す──月の女神を手に入れようとした彼に、どうしようもなく敗北感を感じたあの瞬間を。少しだけ硬くなった肩を、セイがさりげなくそっと引き寄せた。そのまま自分の胸に抱き締める。その温かさに安心して、ディアナは彼を見上げた。
「私の、ため?」
あの時、セイは自分の命を縮めてまで彼女を助けに来てくれた。それでも更にそんな事を考えていたとは知らなかった。
「もう、二度とあなたを見失わないように、どうしても手を打っておきたかったので」
揺れるアクアマリンの瞳が、その奥に切ない光を浮かべる。ディアナの心に傷を残したあの出来事は、セイにとっては悔しくて仕方なかったのだ。
「……セイ、ありがとう」
ポツリと呟けば、彼は柔らかく笑ってディアナの額に口付けた。その様子を、リルディカは微笑んで、少しだけ寂しそうに見つめている。恋人達を引き離さずに済んでホッとした反面、彼らの信頼し合う姿が羨ましくて、眩しくて。──自分には、もう望めないものだから。
セイはその顔を親友へと向けた。
「とはいえ、シーファがこんなに早く完成させるとは思っていませんでした。さすがですね」
「まあ私が偉大なる大魔導士だからこそ出来るのだとは言っておこう」
銀の魔導士は尊大な態度でニヤリと笑うと、弟子の少女を見下ろす。
「だが発動にはかなり魔力を使う。手伝え、リティア」
「はい、お師匠様。ええと、何をすれば?」
ストロベリーブラウンの髪を揺らして少女は頷いたが、次の瞬間──師がリティアを引き寄せて、その唇を奪った。
「──んー!?」
唖然とする一同と、例外としてあきれ顔のセアラ姫とアラン、苦笑するセイ。やや長く熱烈なそれに、リティアの胸元がパアッと輝き、彼女の身体から淡く光る水晶が現れた──アルティスの秘石。リティアの身に封じられた、強大なる魔導士の力だ。それが現れると、シーファは弟子からやっと顔を上げた。
「お、お師匠さま、いきなり何するんですか……」
真っ赤な顔で涙目で睨むリティアに、シーファは平然と言う。
「秘石を出してもらおうと思って。お前制御できるようになったのではなかったのか」
「いきなりされたからびっくりしたんです!しかも皆の前で……っ!」
「たまには私も、お前の愛情を確かめたくなるものでな」
「なっ!」
彼女の身に隠されたアルティスの秘石は、リティアが愛し愛された相手とのキスで封印が解けるという、なんともロマンチックな魔法が掛けられている。シーファのキスで秘石が現れるのは、この上ない愛情の証で。
しかしながら、それを皆に見られるなんて、とんだ公開羞恥プレイだ。
リティアは更に真っ赤に染まった顔でぱくぱくと声にならない声を上げていたが。
「……こんな時に呑気に何やってるんだ。いっそ爆発しろ」
ぼそりと呟いたレイトを、誰も責められなかった。




