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言伝は時計にのせて  作者: 蒸奇都市倶楽部
第二話「鉄の箱は花に厭われ」
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第五節

 その日の客は中引けで帰った。

 適当に見送れば後の時間はひとり。

 週に一度か二度はこんな夜がある。客と入れ替わるようにして、周囲の暗がりから苦痛がやってくる夜が。早く消し飛んでほしい夜が。こいつは嫌いだ。

 夜が嫌いというわけではない。

 部屋にひとりでいられるのはむしろ安心できる。五年前は安心などできなかったから。あのころ家は寝るだけのものだったし、その眠りも平穏ではなかった。知っている男に殴られ、ときに首を絞められる。それでも毎夜のように受け入れざるを得ない、苦痛以外の何物でもない夜を迎えていた。あれから解放されただけでも、勢いに身を任せて行動した価値があったのだと信じている。


 でも苦痛は――痛いのは嫌だ。


 ひとりの夜に味わう苦痛に気付いたわたしはそれを無視できない。大空から籠に入れられた鳥の苦痛。大河から水槽に閉じ込められた魚の苦痛。大地から鉢に植え替えられた花の苦痛。

 どれも同じだ、こんな夜は早く消えてなくなればいい。

 夜が苦痛というわけではない。ここでひとり明かす夜が苦痛なのだ。

 客が見たい夢を投影するのがこの身体。触れられている間は虚心にそれを映していればいい。伽の(まにま)に紡ぐ戯れ言とともに、明けには(ほど)けてしまうから。


 でも、ひとりの夜にはなにも映せない。

 いや、自分しかいないのだから映しているのは……。

 訪れた苦痛が苦痛を映しても苦しいだけ。

 壁や襖を介してときどき伝わってくる、蚊の鳴くようなか細い睦み言や衣擦れ音、甲高い嬌声、物音がぶつかり合う音、そういった諸々を、()を落とした暗い室内でじっと耳にしていると、自分はなぜここにいるのかと気が狂いそうになる。

 なぜ。わかっている。他に場所がなかったからだ。

 かつては路地裏で人を待っていたが、そこは永遠に奪い去られてしまった。ここはわたしが流れ着いた果て。たどりついたこの場所で、もう来ないかもしれない人を待ちつづけている。あの人はわたしがここにいるかどうかも知らないというのに。

 待ち人は、あの人は生きているのだろうか。


 わからない。

 けれど、生きていると信じている。

 あの人がいつか来てくれる。

 宛てなどないのに、それだけを(よすが)に生きている。

 他にいだける希望はなにひとつない中で、それに(すが)っていくしか、わたしの正気を保てる自信がなかった。たったひとつの希望に依りかかり、宛先のない手紙を部屋に舞い散らせ、自分が生きていると実感するしか(すべ)がないのだ。

 目の前の出来事を処し続け、寂しさと切なさをごまかしながら季節を送り迎えする。そんな身では、ふと空いた手すきの夜にはとても堪えられない。気散じに狂ってしまいそうになる。

 廓では定期的に狂女が出るという。それは明日の我が身だろう。

 夜の内から、苦痛を従えた狂いがひたひたと迫ってくるのだ。

 身が震えだす。きっと余寒のせい。……わかっている。

 襦袢のうちに提げている小さな巾着(きんちゃく)を取りだして強く握りしめる。それでも震えが収まらない。足りない。巾着に納めている二枚の押し花を取りだす。

 福寿草と山茶花(さんざか)。あの人とわたしの(えにし)

 あの時と同じものではないけれど、あとから真似てこしらえた二人をつなぐ思い出。

 環境によって変化していくのが人間だというのならば、ここで気が狂うのも自然な変化なのだろう。


 だけど、わたしはそんなふうに変化したくはない。

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