薄明の森にて
夜と朝の境目。
森はまだ眠りの名残を抱いたまま、霧が低く漂っていた。
蹄が落ち葉を踏む音は、驚くほど静かだった。
高成の馬は歩調を落とし、湿った地面を選ぶように進んでいる。追跡を避けるため――と、まいでも分かるほど、慎重な走りだった。
まいは高成の前、鞍の手前に抱えられる形で乗っている。
背に触れる胸板は硬く温かく、馬上の揺れは少ない。
落ちる気がしない、という感覚だけが、奇妙なほど確かだった。
「……どこへ行くんですか」
声は思ったより小さく、森に吸われた。
高成はすぐには答えない。
代わりに、手綱を引く手がわずかに動き、馬が枝を避けて進路を変えた。
前方には、倒木とぬかるみがある。
「南だ」
短い答えだった。
「南……」
「南方なら足が付きにくく、表立って兵も出しにくい。」
相変わらず端的な返答だったが、拒絶ではないのが、だんだんとわかるようになってきた。
元から口数が多い方ではないのだろう。
高成は、何も言わない代わりに、確実に“整えて”いた。この反逆は、突発的なものではなく、計画的に仕組んでいたのだ。行き先の迷いのなさ、用意周到さ、そしてこの落ち着き──
(この人は、いつから企んでいたんだろう)
まいは唇を噛み、問いを飲み込んだ。
胸の奥で、何かがざわつく。――理由を聞きたい。知りたい。高成は答えないだろうけど。
それでも、不思議と“怖さ”はなかった。
枝が顔に当たりそうになると、先に腕が伸びる。
冷たい風が強まると、直垂の袖を引き寄せ、まいの肩を覆う。
馬を止める時も、必ず彼女が揺れない角度を選んだ。
利用されている――
そう思おうとすれば、思えたはずなのに。
でも、利用する者は、こんなふうに相手の様子を気にするだろうか。
物思いにふけっていると、森の奥で、鳥が一斉に羽ばたいた。
遠くで枝が折れる音がする。
背が、わずかに強張る。忘れていたわけではないが、今自分はおわれる身なのだ。息をつく暇などない。
「……追っ手、ですか」
恐る恐る聞くと、高成は首を振った。
「異形だ」
それだけ言うと、馬を止め、音を殺して耳を澄ませた。
まいは息を潜める。
やがて、音は遠ざかり、森は再び静寂を取り戻す。
城での出来事を思い出す。初めて見た異形。城はまいにとって自分を捕えた場所ではある。しかし、南雲が滅ぼされれば、あの土地はどうなるのだろうか。
「城は……」
まいがそう口にした瞬間、高成の腕が微かに揺れた。
怒りでも恐怖でもない。
――何かを押し殺す、癖のような動き。
「今は考えるな」
命令口調だったが、強さはなかった。
「考えたところで、どうにもならない」
それは、まい自身が分かっていることだった。
だからこそ、胸に刺さる。
東の空が、薄く白み始めている。
夜露に濡れた葉が、かすかな光を反射し、森全体が息を吹き返す。
その光の中で、ふと振り返り、高成の顔を見た。
あまりにも整った横顔。
疲労の色はある。
血の匂いも、煙の名残も、確かに残っている。
それでも、彼の輪郭は揺るがず、現実から浮いているようだった。
城門を越えた時の姿が、脳裏に蘇る。
燃える城。
三日月。
空を裂くような跳躍。
明らかに人間離れしていた。しかし、まいにとっては、地獄のような牢から救い出してくれた人。
――月から、使いが来たみたいだった。
そんな考えが浮かび、まいは慌てて首を振る。
高成の目的も、正体も、何もわからないのに、警戒心を緩めつつある自分を内心叱責した。
だけど、その後の不思議な感覚。
幼い頃の記憶など、皆あってないようなものだろう。だから、昔のことを覚えていないのは気にならない。
でも、あの記憶が本当にあったことなら、自分は1度戦か何かに巻き込まれたはずなのだ。そして、その時父ではない何者かに助け出された。
火の煙に混じっても、安心を与えてくれた匂い。それと、同じ匂いがする人。
「……私、あなたをどこかで……」
言いかけて、言葉が止まる。
高成の視線が、一瞬だけこちらに向いた。
鋭く、けれど探るような目。
まいは戸惑いながらも、目を逸らすことができなかった。
「思い出さなくていい」
それは、拒否ではなく、制止だった。
「今は」
今は。
まいは目を見開いた。
やはり、会ったことがあるのだ。それがいつのことなのか分からないけれど。高成も、まいを覚えている。
(初めて会った日から、私のことをわかっていたんだ)
だから村でまいを探し回った様子もなく、あの夜自分のもとへ来たのだ。
謎は深まったが、まいは胸にすとんと何かが落ち着いたのを感じた。
言われたように、今は、それ以上の返答を求めない。急ぐ必要はない気がした。
やがて、高成は馬を再び歩かせた。
森を抜ければ、谷沿いの旧道に出る。そこから南へ――
「休める場所がある」
ぽつりと、初めて“先”を示す言葉。
「そこに着いたら、話す」
何を、とは言わない。
けれど、その約束は、十分だった。
まいは、彼の胸に背を預ける。
鼓動は、一定で、迷いがない。
追われているのに。
全てを失ったはずなのに。
――なぜだろう。
この人の背中にいる間だけ、世界が静かだ。
森の向こうで、朝が始まろうとしていた。
やっと再開できました。
馬のシーンを書きながら、昨日の有馬記念を思い出しております。
どんなに期待を裏切られ馬券を紙くずにされようと、欽ちゃん走りをしたあの姿の可愛さ。
きっと次も、私はタバルに賭けることでしょう。
ちなみに高成の馬・漆駒は黒毛の馬の想定で書いています。戦国時代にサラブレッドはいませんが、比較的馬体が大きくもスラリとした馬という設定です。




