水音のあと
高成は馬に跨り、東街道へと駆けた。
まいは生まれてから一度も村を出たことがない。
比良野が南雲のどの位置にあり、南雲がどのような勢力の中にいるのか。
そんなことも知らずに生きてきたのだと、今になって思い知る。
聞けば、高成は呆れたような顔をしながらも、端的に教えてくれた。
南雲の領は、内陸へ食い込むように存在する小国だった。
豊かとは言えない。だが、地の利だけはある──そう評されてきた土地だ。
西は守護大名の支配下にあり、名目上は味方と言える。
しかし実際には、南雲は国境防衛を任される被官にすぎず、有事の際に迅速な援軍が望めるわけではない。
東方には、長年刃を交えてきた敵国が広がっていた。
山脈と川を隔ててなお小競り合いは絶えず、十年前には国境の里がひとつ、地図から消えている。
南雲にとって東は、防衛線であり、同時に最も神経を尖らせる方角だった。
北には人の手がほとんど入らぬ山々が連なり、異形が多く巣食っている。
追う者にとっても、追われる者にとっても、足跡ひとつが命取りになる場所。
高成とまいが城を出た時点で、行ける方向はそう多くなかった。
蹄の音が、やけに大きく響く。
──隠さないのだ。
まいは、それが不自然だと気づいた。
追われる者なら、もっと静かに、影に紛れるはずなのに。
高成は、堂々と道を選んでいる。
城下外れに差しかかると、高成は馬を止めた。
素早く血のついた袖口を裂き、それを道の中央へ落とす。
暗がりでもわかる濃い色に、まいの喉が鳴った。
「……」
問いは、声にならなかった。
高成は何も説明しない。
ただ、再び手綱を引いた。
馬を走らせる。
数度、背後から馬影が迫ったが、高成は交戦することなく、巧みな馬捌きで敵を翻弄した。
高成は何も言わないのに、漆駒は迷わず応えた。
手綱ひとつで伝わる合図を見て、まいは思う。
この人には、言葉より先に通じ合う相手がいる。
高成が自分とはまったく違う人生を歩んできた人なのだと、背が触れるほど近くにいるのに、とても遠い存在のように感じた。
そうして追っ手の気配は遠のき、ほんの少し夜の闇が和らいだ頃。
高成とまいは川へ出た。
山から流れ落ちる水は、月明かりを映さず黒く沈んでいる。
音だけが、執拗に耳を打つ。
高成は漆駒を降り、無言で蹄に布を巻いた。
結び目を確かめる指に、迷いはない。
まいはそれを見つめながら、胸の奥へ冷たいものが落ちていくのを感じていた。
──追われることを、最初から織り込んでいる。
布切れをひとつ、川へ投げる。
水に触れた瞬間、流れに呑まれ、すぐに見えなくなった。
次に、馬を川へ進ませる。
ざぶり、と大きな水音が立ち、返り血が水に溶ける。
高成自身も浅瀬へ踏み込み、漆駒をさらに深みに入らせ、蹄で岩を掻かせたあと、数歩進んでから再び浅瀬へ引き返してきた。
「ここで終わらせる」
まいは唇を噛んだ。
まるで、馬に乗って川へ入り、そこで足跡が途切れたような跡。
──ここで死んだと思わせるつもりなのだと、理解したからだ。
川面を見つめていると、胸の奥が冷えていく。
自分はもう、この世にいないことになったのだ。
そう思った瞬間、父と弥助の顔が浮かんだ。
知らせもなく消えた娘を、二人はどんな思いで待つのだろう。
まいの沈黙から何かを察しつつも、高成は声をかけることはなかった。
対岸へは渡らず、高成は川上へ向けて馬首を返した。
しばらく浅瀬を進み、まいもそれについていくように河原を歩いた。
やがて木々が入り組んだ場所へ着くと、高成は岸へ上がり、茂みの中を進んだ。
川音が遠のくにつれ、周囲は不気味なほど静かになっていく。
小高い場所へ出ると、ようやく高成は振り返り、足を止めた。
辿ってきた道──東を見る。
闇の向こうには敵国がある。
「……ここから、向かう方角を変える」
まいは高成の視線を追い、次は南西を見る。
山が、影の塊のように連なっている。
「追う者は、東を見る」
それだけ言って、彼は手綱を引いた。
漆駒は迷いなく、獣道のような山道へ踏み入る。
まいは、胸の奥で何かが切り替わるのを感じていた。
──戻れない。
絶望ではない。
ただ何かが、確かに遠ざかった感覚だった。
高成の背は、闇の中でもぶれない。
この人は、逃げているのではない。
最初から、ここへ来るつもりだったのだ。
そう思った。
***
川辺に人影が現れたのは、城下を出てから半刻も経たぬ頃だった。
水際に残る乱れた痕跡を見て、追っ手はようやく足を止める。
最初に膝をついたのは、斥候だった。
「……ここです」
低い声だった。
川辺の石に、濃い色が残っている。
乾ききらず、わずかに艶を帯びた跡。
水で薄まってはいるが、血だとわかる。
別の兵が、布切れを拾い上げた。
水に晒され、端はほつれているが、紺色の上質な布であることはわかる。
「人のものか」
「……ああ」
即答はなかったが、否定もなかった。
川の中ほどには、踏み荒らされた跡がある。
深みに入った形跡。
馬の蹄が、石を掻いた傷。
「馬で入ったな」
「負傷していた可能性は」
問いに、誰も答えなかった。
しばらくして、年嵩の与力が口を開く。
「溺れたと考えるには、都合が良すぎるな」
誰かが舌打ちを飲み込んだ。
川下を見張っていた兵が戻る。
「死体は……ありません」
その言葉が、空気を重くした。
溺れたのなら、何かが流れ着く。
刀でも、布切れでもいい。
だが、川下は静かだった。
与力は、視線を川上へ向けた。
「足跡は?」
「……ありません」
最初からなかったのか、それとも水流で消されたのか。
川で、そのすべてが断ち切られている。
兵の一人が、低く呟いた。
「東へ……乾の国へ向かったのでは」
その言葉に、誰もすぐには頷かなかった。
残された血と蹄の跡。
川岸を最後に見当たらぬ足跡。
すべてを流す川。
条件は整っている。
それだけを見れば、そう結論づけるのが自然だ。
だが──
「高成だぞ」
ぽつりと、誰かが言った。
名が出た瞬間、空気が変わる。
「あれが、こんな分かりやすい逃げ方をするか?」
指図役の侍は、川辺の石をひとつ拾い上げ、手の中で転がした。
「川は、痕跡を消す」
そして、静かに続ける。
「……同時に、嘘も作れる」
川上へ向けて、顎をしゃくる。
「探れ。だが、兵は出すな」
「なぜ」
「もし東へ逃げたなら、国境で捕まる。
もし違うなら──」
言葉を切る。
「──我々は、もう追えていない」
その場にいた者たちは、誰も声を上げなかった。
川は、変わらず流れている。
高成が生きているのか。
死んでいるのか。
それすら、この水面は映さない。
ただひとつ確かなのは──
追う側が、遅れたということだけだった。




