77 王のいない朝
翌朝、セレノアには王がいなかった。
それでも、朝は来た。
閉鎖したセレノア支店の建物は、復興支援の臨時拠点として使わせてもらっている。
街へ出る前、俺は会議室をのぞいた。
加藤君が、机に向かって、復興に必要な物資の一覧を作っている。
今度は、机としてじゃない。自分の椅子に座ってだ。
窓辺では、リアが小さく歌を口ずさんでいた。
オルゴールから流れる音ではない。あいつ自身の声だ。
「おはようございます」
二人から、当たり前のように返事が返ってきた。
それだけのことが、妙にうれしかった。
外へ出ると、焼けた家々の間からパンの匂いが流れてきた。
パン屋の主人が、まだ暗いうちから窯へ火を入れていたらしい。
道の向こうでは、農家が畑へ向かっている。
鍛冶屋は曲がった農具を打ち直し、水路の職人たちは道具を担いで北門へ急いでいた。
感謝掲示板は、昨日までと同じ場所に立っている。
けれど、誰も新しい依頼が貼られるのを待っていなかった。
水が止まっている。
粉が足りない。
今日やらなければ、明日もっと困る。
まず動く理由は、それで十分だった。
水路の入り口で、ダリオの娘たちが父親の古い上着を抱いていた。
戻ってきた人々の中に、ダリオはいない。
アベルの力が解けても、死んだ人間までは戻らなかった。
オルフェンは二人の前で深く頭を下げた。
何も言い訳せず、余っていた道具を手に取ると、水路へ入っていく。
「王に戻らないのですか」
誠司さんが尋ねた。
「もう年じゃ。昼寝を邪魔される仕事は好かん」
「では、この国はどうするのですか」
「民が決める。それまでは、昨日まで悪人と呼ばれていた者も、善人と呼ばれていた者も、同じ席で話せばよい」
その言葉どおり、王のいない王宮の大広間で、緊急会議が開かれた。
役人、商人、職人。
それに、感謝裁判で罪人とされた人たちも同じ席へ着いた。
倉庫に残っている食料は、すべて調べて配給へ回す。
リラでの取引を正式に再開し、グラティアしか受け取らない仕組みはいったん止める。
水路の整備、農業、製粉、医療、ゴミの回収。暮らしに必要な仕事の賃金は、当面、リラで支払う。
それでも、グラティアそのものは捨てない。
親切をしてくれた人へ感謝を届ける仕組みまで、間違いだったわけではないからだ。
ただし、もう人を裁く点数にも、生きる価値にも使わない。
誰かへ「ありがとう」を伝えるためのものに戻す。
国は、まだ立て直せていない。
食料も、職人も、時間も足りない。
それでも、何から始めるのかだけは決まった。
会議のあと、応急修理を終えた水門を見ながら、誠司さんが尋ねた。
「これからは、どのような国にすればよいのでしょう」
オルフェンは、流れ始めた水へ目を落とした。
「今日泣く者を助けながら、明日食う飯も残す。口で言えば簡単じゃが、一番面倒な仕事じゃ」
誠司さんも、しばらく流れる水を見つめていた。
「僕は、もっと世界を見てみたいです」
「世界を?」
「はい。いろいろな王に会って、その人が何を守ろうとし、どのような国を作ったのかを知りたいです」
いい傾向だと思う。
そもそも、誠司さんを王にするため、世界を見て回ろうと言い出したのは俺だ。
あのときよりも、本人の中で旅をする意味が少しだけ大きくなったらしい。
水路の向こうで、歩みの家の子供たちが歓声を上げた。
その輪の中に、ルカがいた。
片腕を直された木の騎士を、胸へ抱いている。
「前へ三歩」
ルカが、自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。
一歩。
二歩。
三歩。
けれど、今度はそこで止まらなかった。
ヘレナさんの声を頼りに、もう一歩、自分の足で踏み出す。
同じ三歩でも、もう誰かの命令で動かされているんじゃない。
「歩けたよ」
「ええ。ちゃんと見ていました」
ルカは、木の騎士を抱き締めて笑った。
水路の入り口近くでは、ミレーユさんが感謝の家から運び出した名簿を広げていた。
戻った人。
戻らなかった人。
今も家族を探している人。
加藤君は、戻ってきた人たちの名前を名簿と照らし合わせ、リアは隣で一人ずつ読み上げている。
二人とも、もう机でもオルゴールでもない。
ミレーユさんが鏡の中から見てきたことを、一つもなかったことにしないために。
*
数日後。
「できました!」
元気な声とともに、臨時拠点の会議室の扉が開いた。
黒髪を後ろで束ね、白いシャツの袖を肘までまくった加奈子さんが、一枚の紙を掲げて入ってきた。耳には、トレードマークのように一本のペンを挟んでいる。
加奈子さんは、人間へ戻ってから最初の記事を書いた。
『セレノアに王はいない。それでも、市民は畑へ向かった』
アベルが人を助けたことも、感謝の家で人を閉じ込めたことも、どちらも消さなかった。
「もう、誰かに書かされた記事じゃありません」
加奈子さんは記事を机へ置き、小さく笑った。
「加奈子さん。お手紙が届いています」
聖華さんが、ヴィスブリッジ本店から届いた一通の手紙を差し出した。
文字で話す例の手紙だ。
紙面に、おそるおそる文字が浮かんだ。
『ぼ、僕を覚えていますか?』
「はい。しっかり覚えています」
『うれしいです。でも、本当は人間だったんですね。同じ紙の仲間だと思っていたので、少し残念です』
「でも、手紙さんは文章を書くのがお好きなんでしょう?」
『はい』
「私も大好きです。でしたら、紙でなくても仲間です」
紙面の文字が、何度も現れては消えた。
『よかったら、僕と、と、友達になってくれますか?』
「はい。もちろんです。まずは、ずっと返せなかったお返事を書かせてください」
最強新聞は便利だった。
けれど、自分の手で書き、自分の言葉で返事ができる今の方が、ずっと嬉しそうだった。
誠司さんは、銀の仮面たちが残した言葉を書き留めた紙を開いた。
八王創生計画。
第三候補。
「王を八人、作るつもりなのでしょうか」
聖華さんが尋ねた。
「現時点では、判断できません」
リーズが答えた。
「ただし、アベル王を第三候補と呼び、失敗したあとも計画を継続すると告げました。ほかにも候補がいる可能性は高いと思います」
八人の王を作って、何をするつもりなのか。
とんでもなく危険なにおいはする。
だが、今ある情報だけじゃ何も分からねぇ。
「もう一つ、気になる情報があります」
加奈子さんが、一枚の速報を机へ広げた。
「今朝、港町エリスから入った情報です」
『港町エリス沖に幽霊船。目撃相次ぎ、すべての航路を封鎖』
「ゆ、幽霊船……ですか」
誠司さんの顔が青くなった。
「幽霊船! 見てみたいです!」
聖華さんの目が輝く。
リーズは、そっと速報から目をそらした。
「未確認情報です。調査する必要はないかと」
必要がない割に、声が少し震えているぞ。
次の目的地は、港町エリスになりそうだ。
感謝の国を出て、死者の海へ。
どうやら、次の旅はもう始まっているらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第四章「感謝の国と慈愛の王」は、これにて完結です。
誰かに「ありがとう」と言われることは、とてもうれしい。
けれど、それを求めすぎたとき、感謝はどのようなものに変わってしまうのか。
アベルもまた、誰かを救いたいという願いから始まり、いつしか「ありがとう」に囚われてしまいました。
彼のしたことは、決して許されるものではありません。
それでも、最初に抱いた願いまで嘘だったとは思いたくありません。
感謝の国をあとに、誠司たちの旅は続きます。
次の目的地は、港町エリス。
どうやら、海には幽霊船が現れているようです。
誠司とリーズは、無事に幽霊船の謎を追えるのでしょうか。
聖華だけは、かなり楽しみにしているようですが……。
次章もお付き合いいただけましたら幸いです。




