第9話 「観察日誌」
魔王城。
朝だった。
セバスは執務室で帳簿を開いていた。
いつも通りの朝だった。
書類が積んである。
決裁が三件。報告書が五件。
それから、封筒が一通。
見覚えのある筆跡だった。
(……また来た)
封を切った。
丁寧な字で、こう書いてあった。
『東の村、修繕費。宛名:マオ様』
セバスはしばらくそれを眺めた。
帳簿を閉じた。
モノクルを外した。
丁寧に、ゆっくりと、拭いた。
戻した。
また外した。
(先代もよく家出されておられた)
先代は帰ってきた。
それなりに早く。
(マオ様は)
また外した。
拭いた。
戻した。
請求書を帳簿に挟んだ。
今月だけで、三通目だった。
(……几帳面なお方だ)
それだけは認めた。
ため息をついた。
長い、深い、先代から積み上げてきたような息だった。
次の書類を手に取った。
仕事は、減らない。
同じ頃。
街道から少し外れた丘の上。
ヴァルドは草むらに伏せていた。
マントが草で汚れていた。
気にしていた。でも動かなかった。
手には、遠見の筒。両目に当てて、遠くを見る道具だ。
街道を歩く一行が見えた。
先頭がマオ様。
(お元気そうだ)
その隣が、白い衣の女。
(……殺戮天使)
遠見の筒を持つ手が、わずかに固まった。
距離がある。丘の上だ。それでも、なんとなく、やめておこうという気持ちになった。
後ろにでかい男。
(ガレットか。人間側の)
野菜を抱えている。なぜ。
猫獣人。
(チトか。どこから嗅ぎつけた)
地図を見ている。情報屋らしい動きだ。
それから。
ヴァルドは遠見の筒を止めた。
(……え?)
小さな影がいた。
でかい男の隣を歩いている。頭三つ分以上、差がある。腕を組んでいる。妙に貫禄がある。
遠見の筒を向けた。
「……メルか」
サキュバスの幼女だ。なぜそこにいる。
「……あのロリババア、何をしに」
その瞬間。
幼女が、ぴたりと止まった。
ヴァルドも止まった。
遠見の筒越しに、こちらを見ていた。
(……いや、見えているはずがない)
距離がある。丘の上だ。草むらに伏せている。
それでも。
目が、合った気がした。
幼女の目が、細くなった。
じわりと、背筋に何かが走った。
殺気だった。
(見えていないはずだ)
(三百メートルは、ある)
(草むらだぞ)
しばらく固まった。
幼女はもう歩いていた。
何事もなかったように、でかい男の隣を歩いていた。
ヴァルドは息を吐いた。
手帳を取り出した。
几帳面な字で書いた。
『本日の観察記録』
『マオ様、お元気そう。よかった』
『殺戮天使、隣にいる。距離を保って観察する』
『でかい男、野菜を抱えている。なぜ』
『チト、地図を見ている』
『メル、なぜマオ様と行動している』
『目が合った気がした』
『見えていないはずだが』
『殺気を感じた』
『距離、三百メートル以上』
『次から発言には気をつける』
ヴァルドは手帳を閉じた。
遠見の筒を、もう一度向けた。
一行がゆっくりと遠ざかっていく。
まりっぺが何かを壊した音がした。遠くで。
マオ様がため息をついているのが、なんとなく想像できた。
ヴァルドはマントの草を払った。
丁寧に、きちんと払った。
誰も見ていないのに。
魔王城。
夕方。
セバスが窓の外を眺めていた。
書類仕事が一段落した時間だった。
(マオ様は、今日も元気にされているだろうか)
請求書が来るということは、生きているということだ。
(そういうことにしておこう)
モノクルを外した。
拭いた。
戻した。
仕事に戻った。




