第35話 一歩、内側へ
朝の現場は、まだ温度を持っていない。
カラーコーンを並べ、規制帯を張りながら、空を見た。雲は低いが、風はない。音が遠くまで通る日だ。
無線が鳴る。
『――搬入車、九時十分予定』
「了解です」
短く返す。
返した声が、自分のものより少しだけ低く感じた。
理由は分からない。ただ、最近はこういうことがある。
トラックが来る前に、歩行者の流れを見ておく。
駅に向かう人間は、一定の間隔で波のように来る。途切れる瞬間がある。その隙間は長くないが、確かに存在する。
焦って止めれば流れは乱れる。待てば、自然に道は空く。
――流れは止めるな。
誰の言葉だったかは、思い出せない。
ただ、それが正しいことは分かる。
トラックが角を曲がって見えた。
手を上げる。
「すみません、少々お待ちください」
歩行者に声を掛ける。
止めるのではなく、“知らせる”。
二人が通り過ぎる。三人目は少し迷って、足を速めた。
そこで、トラックに合図を送る。
「どうぞ」
ゆっくりと車体が動く。
後方を確認する。自転車は来ていない。
作業員が小さく手を上げた。運転席の向こうで、頷きが返る。
何事もなく、搬入は終わった。
「助かるよ」
降りてきた運転手が言った。
「いえ」
そう答えながら、自分の中に余計なものが混ざらないようにする。
これは、自分の仕事ではない。
ただ、境界に立っているだけだ。
――そのはずだった。
昼前、配管屋の山崎さんが煙草に火をつけながら言った。
「最近の若い奴らはな、手より口が動く」
「俺も、まだ若い側のつもりなんですがね」
そう返すと、山崎さんは煙を吐いて、
「お前は――まあ、どっちでもいい」
と言った。
どちら側でもない。
その言葉は、排除ではなく、保留のように聞こえた。
「警備員くびになったら、うち来いよ」
別の職人が笑いながら言う。
「食いっぱぐれはなさそうだ」
冗談だ。
冗談のはずなのに、
少しだけ、現実味を持って聞こえた。
警備員は、現場の人間ではない。
だが、現場の外の人間でもなかった。
午後、規制を一度緩める必要があった。
作業は順調だ。問題はない。
無線が入る前に、それは分かった。
――今なら、流せる。
歩行者は一人。
距離もある。
トラックの運転手がこちらを見ている。
わずかに頷いた。
それに、頷き返す。
手を上げる。
「どうぞ」
世界は、滑らかに動いた。
誰も止まらない。
誰も困らない。
すべてが、うまくいっている。
そう思った。
風が、少しだけ強く吹いた。
規制帯が、小さく揺れた。
その揺れを、見ていたはずなのに、
なぜか、
深く考えなかった。
警備員は、現場の人間ではない。
だが、現場の外の人間でもなかった。




