第九十六話 荀爽
早朝から、獄中の彭脱が怪しげな書簡を持っていると、牢獄の入り口付近で騒ぎになっていた。
その騒ぎにいち早く感づいたのが、孔融の親友であり同じ従事として仕えていた脂習という男だ。
脂習は番兵からその書簡を預かり、そして孔融へと書簡が渡され、ついに王允の元に辿り着いた。
皇甫嵩率いる中央から集結した五校の正規軍と共に予州汝南黄巾賊を打ち破り、予州刺史として初めての勝利を味わうハズだった王允は、その余韻に浸っている暇すらなかった。
「まさか……というべきか、やはりというべきか。あの大物宦官も黄巾の賊どもと繋がっていましたな」
王允は信頼すべき二人の男の前で、獄中の彭脱が持っていたというその書簡を見せた。
汝南黄巾の渠帥である彭脱がとんでもない書簡を持っていたのだ。地下牢の門番が見つけたのだという。
「貴方がた二人の意見を聞きたい。すぐに雒陽に取って返し、張譲を陛下の前で弾劾するか、それとも黄巾賊を滅するまでは極秘にすべきか」
荀爽、孔融という稀代の儒士を幕僚に迎えるべく、王允は自ら礼を持って彼らを招聘したのだった。
荀爽は潁川郡を代表する名家の一門の一人であり、党錮の禁を受刑していた名士の一人であり、この度、党錮の禁が解除されたことによって王允に招聘されたのだった。
孔融は儒教の祖である孔子の子孫であり、誰もが認める名門の家系である。孔融自身も若くして数々の逸話を持つ思想家であった。
「言うまでもなく、漢室に仇なす反逆者、黄巾賊を撃退する事こそが最優先の課題です。張譲の弾劾はそれからでも遅くはありません。ここは辛抱強く賊の駆逐に心血を注ぎましょう」
若き孔融が力強く意見した。王允は頷いて窓の向こうに見える朝焼けを見た。孔融の答えを最初から知っている様にも思えた。
「この事は外部に漏らしてはなりませぬ。特に、皇甫左中郎将には絶対に知られてはならぬのです。この件によって彼の足を引っ張るような真似はしたくありません」
王允はこの度の事態を真摯に受け止め、荀爽と孔融の二人も王允の意図する所を理解し、守秘する事を誓った。
「御意にございます、王予州。して、彭脱が交渉してきた取り引きは如何致しましょう。たとえ賊であろうと一度交わした約束を反故にするのは道理に反するかと」
早朝の窓から漏れる朝日で、荀爽の真っ白な髪が輝いて見える。問いかけられた王允は、暫し答えようとしなかった。
「賊の幹部の内、彭脱がいう四人の男を助ける代わりに、この書簡を我等に預ける、という話でしたな」
王允が口を開いたが、その言葉はまだ答えを導き出すに至っていない。
「王予州殿に尋ねるまでもないでしょう。そもそも王予州が直接的に賊共と取り引きした訳ではありませぬ。たとえどんな輩であろうと漢の社稷を腐らそうとする者には、当然ながら死をもって償わすべきなのです。ましてや賊の渠帥を生かして開放するなど有り得ない」
若き孔融が冷徹な顔つきで荀爽に返答した。王允はすぐに頷いた。
「文挙殿の言う通りだな。慈明殿、今日中に渠帥である彭脱とその幹部を全て処分してしまいましょう。捕虜になった賊兵は奴隷として従軍させます」
年長の荀爽より十歳若いがすでに五十歳近い王允は、先輩の荀爽を立てつつも若き孔融の意見を採用した。
荀爽は深々と一礼して「御意」と一言を残して、その場を後にした。颯爽として少しも不満そうな態度はない。
少ししてから孔融は荀爽の後を追い、謙って話しかけた。
「先程は王予州の御前だったので、賊を処分すると言いましたが、慈明(荀爽の字)殿、貴方のお気持ちは察しております。あの中に貴方と同じように党人だった者がいるのですね。確か、彭脱の他に、劉辟、何儀、黄邵、何曼という名が見えました。四人は貴方と同じ潁川の出ではありませぬか」
荀爽は突然の孔融の告白にたじろぎもせずに答えた。
「さぁ、あの賊の頭目に党人がいるかどうかは知りませんが、いたとしても、それ相応の処罰を受けるべきでしょうな」
荀爽の返答に対し、孔融は下を向いて唐突な話を語り始めた。
「私は、荀従事中郎、貴方に恩があるのです。その御恩にいつか報いたいと常々思っておりました」
「恩。さて、なんでしょう。文挙殿とは今回の王予州の招集で初めてお会いした筈ですが」
「貴方は、我が孔家の祖である高祖(孔子)様を敬い、腐敗しきった朝廷の儀礼を糺して頂きました」
荀爽はニコリとして孔融の顔を見た。
「どういう意味かな?」
「荀氏の八龍の中で最も優れていると謳われ、易経においてはあの馬季長殿を凌ぐと言われるほど高名な貴方です」
荀爽には七人の兄弟がおり皆が優れた人物だったので、地元の潁川では「荀氏の八竜」と呼ばれており、その八兄弟の中で特に優れているとされたのが荀爽なのである。
馬季長とは、儒教経典に深く通じる馬融という稀代の学者だ。廬植は彼の弟子である。その馬融をも超える才を謳われたのだ。
さらに孔融は、荀爽の功績を例にだして賞賛を続けた。
例えば、先帝の時代に奪服制という、三年の喪に服すという儒教の意に反し、三十六日の喪に服した後は職務に戻る事を廃する論を積極的に取り上げ、また、尚公主における夫婦のあり方を批判を賞賛した。
公主とは皇帝の娘をいう。臣下が皇帝の娘を妻に迎える事を尚公主という。その夫は臣下ゆえ妻に逆らえなかった。これは儒教においてはあってはならない事だった。
それだけでなく、党錮の禁が間違いだったと、恐れることなく問い糾すなど、荀爽がこれまでの軌跡を例にあげて賞賛したのである。
「これは高祖(孔子)様の教えを尊び敬って頂いているからこそです。末孫の私が高祖に代わって貴方にお礼を申し上げます」
若き孔融の物怖じしない返答ぶりに荀爽も感心して言った。




