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三国志創生伝 ~砂塵の彼方に~  作者: 菊屋新之助
第九章  権謀術数
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第八十九話  戦線膠着

 六月、冀州の広宋(こうそう)県では熾烈な戦いが繰り広げられていた。


 本拠地である鉅鹿(きょろく)で太平道の主力である張角の軍を破った北中郎将の盧植は、逃げた太平道の軍を広宋の県城にて追い詰め、凄まじい勢いで攻め立てた。


 盧植の率いる北軍は漢軍の中でも精鋭で、しかも盧植は異民族討伐で数々の戦功を挙げた武将である。城攻めを行うに応って、雲梯(うんてい)を用意させた。


 巨大な梯子(はしご)を巨大な滑車に搭載した、城壁を登る為の攻城兵器だ。雲梯を数十台並べて決死隊を突入させた。広宋の城壁を苛烈に攻め立てた。


 もはや落城寸前という有利な戦況の最中、勝利を覆すとんでもない事件が起った。


 皇帝が視察の為に派遣した小黄門の左豊(さほう)という宦官が、広宋の包囲陣の中へやって来たのだ。


 戦況を報告する為の視察団が訪れるのは、当時としてはよくある事だった。しかし、それはこの時代ならではの悪習も伴っていた。


 盧植の副官であり、護烏桓(ごうがん)中郎将でもある宗員は、左豊の突然の来訪に対し、盧植への助言を告げる。


左小黄門(左豊)が陣営に到着されたとの事です。まずは宴会の席を設けて歓待しましょう」


「馬鹿がっ!! あと一歩まで追い詰めている敵を前に、宴会など開いている場合か!!」


 盧植は銅鑼の鐘の如く一喝した。しかし宗員は一歩も引くことなく丁寧に自分の意見を述べた。


「お待ち下さいっ。私とて盧北中郎と共にここまで戦い抜いてきたのです。お気持ちは察しているつもりです。なればこそ、この場は耐えねばならぬ時かと。それに、風前の灯火の賊を前に宴会を開くのもまた、賊どもを欺く策にもなります」


 盧植は宋員の冷静で熱意ある助言に気を鎮めた。そして渋々ながらも宴会の席を設けることに賛同した。


 限りある兵糧では十分な(もてな)しは出来なかったが、それでも精一杯の誠意を見せようとさえした。


 だが、即席で質素な宴会の席の中で、左豊は横柄な態度を振り撒き、並み居る諸将は憤懣やるかたない気持ちになった。


「なんだぁ? この殺伐とした宴席は。陛下の命を受けて視察に参った(わし)を、なんだと心得ておるのかっ」


 上座に座っている傲岸な左豊を、目が血走るほど睨む盧植の肩は、湧き上がる怒りを抑えきれずに震えている。彼の怒髪天を衝く勢いの形相に、左豊も少し怖気づいた。


「まぁ、よい。田舎者の貴様らに期待した儂が愚かだった……という事よのう。それならそれで別のやり方で誠意を見せるのでも良いのだが」


 つまり、左豊が催促しているのは賄賂の事である。視察に来た皇帝の使いに賄賂を貢ぐのはこの時代さして珍しい事でもなかった。


 とはいえ、今回の戦は国家の社稷を揺るがしかねない未曾有の大乱である。浅ましい賄賂の膳立てなどしてる場合ではない。盧植の怒りはついに一線を超えた。


「宦官ごときが戦場で何をほざくかっ! 叩き殺してくれる!」


 持っていた盃を左豊の顔面に投げつけた盧植は、刀を鞘から抜いて左豊に襲いかかろうとした。同席していた諸将数人が盧植の巨体を押さえつけて懇願する。


「北中郎将殿っ、ここは怒りをお収め下さい!」


 副官の宋員も必死で頼み込む。当の左豊はあまりの恐怖にその場を動くことが出来ずに泣き出す始末。


「ひぃいい!!」


 左豊は這々の体で陣営から逃げ出し、急いで雒陽へと帰っていった。実は、これこそが張譲の策であった。


 皇帝の視察団という大役を、経験のない左豊に与え、張譲は彼に予めこの様に吹き込んでいたのである。


「陛下の使者というのは、陛下のお言葉そのものと心得よ。戦陣の諸将に気兼ねして威厳を損なってはならぬ。むしろ、諸将たちを締め上げて戦況を少しでも早く進展させるくらいの意気込みを見せ付けるのだ。もちろん、慣例となっている視察団への上納金も必ず持って帰って来い」


 逃げ帰ってきた左豊にとって、こんな体たらくでは皇帝はもとより張譲に合わす顔もない。雒陽へ着いた途端、とんでもない大嘘を皇帝の前で吐き散らした。


「広宗に篭っている黄巾賊はすでに虫の息。いつでも容易に打ち破れるのに、盧中郎将は陣中で宴会ばかり開いております。戦を長引かせて京師より兵糧を催促するつもりなのでしょう。こんな有り様では奴にいつ天罰が下ってもおかしくない筈です」


 その言葉を鵜呑みにした皇帝は怒りを爆発させた。檻車(罪人を載せる檻のついた車)を陣中に送り付けて盧植を更迭した。


 広宋城の攻撃は陥落寸前を目の前にして、一時中断しなければならないという憂き目にあってしまったのだ。


 雒陽に連行された盧植はすぐに死罪を申し付けられたが、多くの士大夫の嘆願により死罪だけはなんとか免れる事ができた。


 盧植の更迭によって副将の宋員が後任に選ばれたのだが、盧植に頼りきっていた為に、何ひとつ成果を残す事が出来なかった。


 そこで宋員の後釜として期待をかけられたのが(りょう)隴西(ろうせい)郡出身の豪傑、董卓(とうたく)である。字は仲穎(ちゅうえい)といい、その地位は北中郎将に継ぐ東中郎将として着任した。


 背丈は高いほうだが、寸胴な体型に見えるほどに手足の筋肉が太い。肌は色黒な方ではないが髭も眉毛も剛毛なので顔が黒く見える。


 腕力は人並み以上で武勇に秀でており、二つの弓袋を両肩に掛けて、左右どちらからでも弓矢を放てる、という特技を持っていた。


 利き腕の片方側からしか矢を放つ事ができない者が多い中、左右どちらでも両射ができるのは達人の域だ。


 北方の羌族や胡族などの騎馬民族を相手に戦ってきた歴戦の勇者だが、攻城戦は初めての経験であり、果たして董卓に任せて良いものか議論も起った。が、またしても張譲の裏工作により、息のかかった董卓が選ばれたのであった。


「ついに董卓を使う時が来たな」


 段熲(だんけい)が死ぬ前の張譲との密約で、董卓との縁を繋ぐよう計らっていたのだが、それをついに行使する時が来たのだ。


 董卓の父である董君雅は潁川郡倫氏県の尉を務めていた事があり、潁川出身の張譲も少なからず面識はあった。


 張譲の図らいで董卓の弟、董旻(とうびん)奉車(ほうしゃ)都尉にするのを条件に、雒陽から遠く離れた涼州の董卓と密約を結ぶ事が出来たのだ。


 奉車都尉とは皇帝の輿車(よしゃ)(つかさど)る職務だが、この時代は武官の位の一つとなっていた。


 弟の董旻を使って董卓とのやり取りをしていたのは、本人の張譲以外では、親友の趙忠しか知らない。


 盧植の後釜でやって来た董卓の参陣に伴い、鉅鹿太守の郭典の軍も参戦する事になっており、共同で鉅鹿の最北端、下曲陽(かきょくよう)に攻め寄せた。


 下曲陽は張角の弟である張宝が陣取っており、涼州から南進してきた董卓の通り道でもある。


 郭典は囲塹(いざん)(城を囲む堀)を作って対抗しようと提案したが、董卓は郭典の案を無下に否定し、一步も動かないと開き直った。


 憤慨した郭典は、東側に駐屯している官軍をよそに、単独で西側から賊の要衝を阻んで、昼夜を問わずにひたすら進攻した。


 郭典の活躍で、張宝は城から討って出ることが出来ず戦線は膠着した。人々は郭典の奮戦がなければどうなっていた事かと安堵したという。


 董卓が全く動こうとしなかったのは、張譲が密かに根回しした策略に乗っただけでなく、董卓自身の思惑があって全力を出さなかった。


 兎にも角にも一度は陥落寸前にまで至った盧植の活躍は水の泡となり、冀州での官軍と黄巾族の膠着状態はしばらくの間続くことになる。

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