第八十七話 悪来
五月のある朝、張譲は雒陽内にある自邸宅内を散策していた。皇帝の宮殿にも引けを取らない豪華絢爛たる邸宅は、彼の持つ権力を象徴していた。
かつて皇帝が宮殿の高台に登ろうとした時、張譲はその行為を諌めて言ったという。
「天子というものは、下々の民に決して姿を見せてはなりません。天に近い高貴な存在なのですから、天下万民の為を思えばこそ自重しなければなりませぬぞ」
ただ単に高台から自分の豪華な邸宅を見られたくないという、実に浅ましい理由で皇帝を高台に登らせなかったのである。
その邸宅を歩きながら張譲は潁川からもたらされるであろう情報を待っていた。潁川に騎都尉として派遣した曹操が、黄巾賊……いや、太平道の大方・波才と結託して反乱を起こす手筈なのだ。
太平道の革命が成功した際には、張譲は晴れて太平道の大方の一人として昇格、ゆくゆくは太平道の幹部として安泰の道が開ける。
もちろん、今のままでも人臣を極めた優雅なる暮らしだが、儒教が中心のこの世界では未来永劫、宦官という性別のない卑しい身分。
虚栄心の強い張譲にとって今の贅沢な暮らしなどより何より得たいのが、人々から尊び敬われる畏敬の念である。
かつて張譲の父が亡くなり、故郷の潁川で盛大な葬儀を開いた事があったが、弔問には知り合いの宦官少数が訪れただけで、潁川の名士が弔問に赴いたのは陳寔という名士一人だけだったという。
張譲はその事で潁川に多くいるという名士たちを逆恨みした。それは自分が宦官であり、儒教社会から忌み嫌われる存在であるからなのだと、この世そのものさえも呪いたくなった。
故郷の潁川など滅びても一向に構わない。張譲の儒教に対する恨み辛みは日に日に大きくなり、ついには太平道を心から支持する信者となっていたのだ。
だが、この度の太平道の乱で、長らく幅を利かせていた儒者どもも滅び去るだろう。いや、滅ぼさねばならない……この漢王朝と共に。
そんな事を考えつつ不敵な笑みを浮かべながら、草木に垂れている朝露を眺めている張譲に、不吉な一報が耳に入ってきた。
「張中常様っ、馬元義がついに雒陽に連行されてきたようですっ」
馬元義。兗州の山陽郡で逃亡中に発見されて捕縛、ようやく雒陽に連れ戻され、車裂きの刑に処されるのだという。
処刑の前に馬元義には壮絶な拷問が待っている。数ヶ月前まで馬元義はこの雒陽の城内で謀反を企んでいたのだ。さらなる共謀者がいると思われている。
そもそも馬元義を雒陽から逃してやるように手配したのは張譲自身である。せっかく逃してやったのに、簡単に捕まってしまうとは何たる事であろうか。
このままでは自分の身も危うくなる、張譲も焦り始めていた。長社に派遣した曹操はどうなったのであろうか。
その頃、夏侯惇はある任務を遂行するために、戦勝に沸く雒陽へと向かっていた。
夏侯惇が託された使命は、曹操が任務に失敗して戦死してしまったと張譲に伝える事である。曹操の活躍により波才を破ったとなれば、曹操の一族は張譲の讒言によって一族郎党滅ぼされてしまうだろう。
伝え方を誤ると大変な事になる。ましてや、曹操と張譲の関係は極秘中の極秘。夏侯惇は使者として用事を済ませた途端に消されてしまう可能性が高い。
まず夏侯惇は、曹操の言う通り何顒の所へ訪ねた。何顒は党錮の禁を解かれ、堂々と雒陽の街を歩ける身分となっていた。
何顒は元々派手な身なりをするのが好きな男で、自分の着る服には拘りがあった。しかも、いつも多くの名士を引き連れて歩いている。党錮の禁から彼に救われた者が付き従っているのだという。とにかく目立つ男だ。
その何顒とは初対面の夏侯惇であったが、曹操の言う通り彼の居場所はすぐに分かった。
「可伯求殿。私は曹孟徳の義弟、夏侯元譲と申す者です。お伝えしたいことがあるのですが」
街なかを歩いている所に突然話しかけてきた男に対して、丁寧に対処してやる何顒。すぐに人気のない場所へと移動した。
「そうか、波才を打ち破ったか。さすがは孟徳殿よ。そのうち街中がこの話題で溢れるだろうな」
「はい。私はこの情報を張譲に伝えねばなりません。騎都尉は作戦に失敗して戦死したと」
「戦死したのか?」
「いえ、あくまで張譲を欺くための偽りの情報です」
夏侯惇は曹操と張譲のこれまでの経緯を何顒に手短に説明した。何顒もある程度の話は曹操より聞かされて知っている。
「そうか。そうだな、そうすべきであろう。彼が張譲と繋がりがあった事は私も知っていた。張譲は恐ろしく狡猾な奴だが、孟徳殿は張譲に対する切り札を持っているとも聞いている。その為にも君の仰せつかった任務が重要なのだろう。しかし、張譲の所へ行けば無事では済まないのではないか?」
「覚悟はしております。それより、従兄の一族の安全がまずは第一です。その為なら死す事も怖れません」
「孟徳殿は素晴らしい義弟をお持ちのようだ。よし、孟徳殿の家族に危険が及ばぬように私も手配しよう。党錮の禁を解かれた今、私に恐るるモノはない。それより、もし良かったらなのだが、紹介したい人物がいる。会ってくれるかね?」
何顒の申し出を了承し、とある邸宅に案内された夏侯惇は、張邈という名門出身の貴公子と対面した。何顒と共に曹操や袁紹とも交流があるで夏侯惇も初対面ではない。
字を孟卓といい、義侠の為なら金や命も惜しまない男として知られていた。曹操が兄弟のように親しくしている人物である。
「やぁ、元譲じゃないか。久しぶりだな」
張邈は親しげに夏侯惇に話しかけたが、今までの経緯を聞いて深妙な顔つきになった。
「くそっ、張譲め。国家転覆を企んでいたとは。今からでも構いやしない、奴の邸宅に乗り込んで切り裂いてやろうぜ」
熱くなってきた張邈を宥めるように何顒は言った。
「まぁ、そう焦るな。あの狡猾な張譲がそう簡単に尻尾を出す筈がない。帝のお気に入りの不届き者だ。だが、孟徳殿は秘策があると言っていた。今はその言葉を信じて我々はことの成り行きを見守るべきだ」
張邈も何顒の言い分はもっともだとし、その代わり一人の偉丈夫を夏侯惇に紹介するのだという。
「誰か、豪来を呼んできてくれ。元譲の側につけてやるから、そいつを連れて行けよ」
夏侯惇の前に現れた豪来という漢は、姓名を典韋という。
夏侯惇の頭一個分ほど背が高く、まるで全身筋肉と言わんばかりの剛健な体付きをしていた。かなりの剛毛で、ただでさえ太い腕が毛のせいでさらに太く見える。
かつて恩人の為に仇討ちをしてやったという逸話を持ち、数百人の食客がいる館に単身で乗り込んで、平然として仇討ちして帰ってきたという男だ。
「まだ張譲を殺してはならぬぞ。それをするのは元譲の主君、孟徳なのだからな」
張邈は典韋にそう告げると無愛想に頷き、夏侯惇の顔を上から覗きこんだ。顔を近づけるとかなり酒臭い。夏侯惇は微動だにせず典韋を睨み返す。
「なるほど、アンタは死を恐れてやしねぇ」
そういうと、夏侯惇に一礼して、手にしていた酒瓶をぐいと飲み始めた。典韋はとにかく大酒豪という事だが、泥酔して失態を犯した事は一度もないという。
俺も一杯もらおう、と夏候惇も典韋の酒瓶を取り上げて勝手に飲んでしまった。典韋はそれを見てニヤリとする。
早速だが次の日の早朝には、夏侯惇は典韋を引き連れて張譲の邸宅へと向かった。その道中で典韋は夏侯惇に大してぶっきら棒に話しかける。
「詳しい話は聞いてねえが、アンタ、張譲って奴に報告に行くだけだろ? 何で俺も一緒に行く必要があるんだ?」
「嫌なら無理に来なくてもいいんだぞ。俺はこれから死地に赴くんだ。余計な事は言わんでもいいぞ、豪来」
「けっ、そうかい。俺ぁただ、こんな朝早くに起きるのが面倒だっただけだ。まぁ、世話になってる親分に行けって言われてんだから、嫌でもなんでも行くけどな」
まるで息の合ってない二人だが、侠気を拠り所として生きている所は共通していた。そこに奇妙な信頼関係があったのかもしれない。




