第三十二話 橋玄
曹操は雒陽の市外にある橋玄の邸宅へとやってきた。
かつては渡遼(北方面軍の意)将軍として高句麗を敗走させたという、華々しい軍歴を持っているのだが、橋玄の邸宅はかなり質素で、とても名家の出身とは思えないほどである。
最近の橋玄は病気がちで、自宅療養をしている事が多かった。曹操は構わず邸宅内にズカズカと入って行き、橋玄の寝室まで難なく辿り着いた。
「太尉殿。お体の具合はいかがでございますか」
「おお、孟徳くんかね。見ての通り、寝ている事が多くなってな。そろそろ太尉の職を返上しようかと思っているのだ……」
「何を仰いますか、太尉殿。まだまだ頑張ってもらわないと」
「ふふ。ワシも、もう七十だぞ。こんな老人をまだ働かそうというのかね? それと、太尉殿なんて言い方はよしてくれ。ワシとお前の仲じゃないか」
「そうですか。でも、俺だっていつまでもヤンチャ坊主でいられません。これでも北部尉だったんですから。それに、貴方に目をかけられたおかげで、少しは一目おかれる存在になれた。本当に感謝しております。おかげさまで、貴方に紹介して頂いた許先生にも過分な評価を頂戴しましたよ。フフフ」
「こちらこそ、ありがとうよ。それにしても、許子将が評した君への月旦(人物評)は本当に愉快だったなぁ。『治世の奸賊、乱世の英雄』だったかな?」
「いやいや、ちょっと違いますね。彼が言ったのは、『治世の能臣、乱世の奸雄』ですよ。まぁ、どちらでもいいんですが。それにしても、許先生にはなかなか評を頂けなかったので、少々キツい事をして驚かせてしまいました」
「ふ、子将を脅したらしいな。アイツも臍曲りだからな。それぐらいで丁度良いだろ。やっぱり、君は面白い男だ。私も色々な人物を見てきたが、君ほどの男はそうはいない。いつか必ず名を残す偉業を成し遂げるに違いない。私の残りの人生はもう長くない。できれば妻子を君に託したいくらいだ」
「俺なんかに、過大な評価をして頂き光栄に思います。でも、たった今、頓丘の県令に任命された所なんです。今日にでも都から去らないと」
「そうか。いつか必ず君にも天の時がやってくるだろう。その時は私の遺言を宜しくお願いしたい」
「もし俺が……いや、この私が事を成した暁には、必ずや貴方様との約束を果たしたいと思います」
橋玄は疲れたのか、最後は首をコクンと頷くだけで、それ以後は曹操に言葉をかける事はなかった。曹操は深々と頭を下げて寝室を後にした。
邸宅を出るとそこには見覚えのある男が立っている。懐かしい顔だ。
「久しぶりだな、吉利(幼少時の呼び名)。いや、操よ。ここで出会うなんて何と奇遇な。私も太尉に挨拶をと思って寄ってみたんだ」
「お久しぶりで御座います、父上。お元気そうで何よりですが、『吉利』はそろそろやめてくださいませんか」
その男は曹操の父である曹嵩だった。字は巨高。曹操よりも背が低くかなり小男である。曹操の身長は七尺(約一六〇センチ)、背が高い方ではない。
父親と話すときの曹操は、橋玄と話すとき以上に丁寧な言葉で父に接していた。だからこそ曹嵩はわざと幼少時の名で、息子の曹操を呼んだのである。
「栄転が決まったそうだな。おめでとう。これから発つのか?」
「有難う御座います。今日中には京師を去る予定です」
「お前も順調に出世しているようだな。私は大鴻臚(諸侯の管轄大臣)に昇進する事が内定している。お互い頑張ろうではないか」
残念ながら父の嵩には政治的資質が乏しかったので、祖父が残した莫大な遺産を賄賂に使って出世していた。
賄賂が横行していたこの時代、さして珍しい事ではないが、才能を何より重んじる性格であった曹操には受け入れがたい心境があった。
「父上の栄進にはこの上ない誇りを感じております。これからも恙無きようお過ごしください。それでは、私はこれで」
曹嵩はもっとゆっくり息子の曹操と語り合いたかったのだが、丁寧な言葉使いとは裏腹に素っ気無い態度で去ってゆく息子を、少し淋しく後ろめたい気持ちで見つめていた。
賄賂で成り上がった曹嵩は橋玄からも嫌われていた。また息子からもずっと敬遠されているのを知っていた。
だから、彼は橋玄に挨拶しに来たのではなく、息子に会えると思って橋玄の邸宅にやってきていたのである。
荷物を取りに帰ってきた曹操に、身支度を済ませ待っている夏侯惇が話しかける。
「太尉への挨拶は済んだのかい、兄貴」
「ああ。そういやさっき偶然、お前の叔父さんと久しぶりに会ったよ」
「え、オレの叔父……? まさか、それは兄貴の父上の事か?」
「そうだな」
「なんて言い方すんだよっ、兄貴自身の父上だろっ。そんな風に呼ぶなんて」
「冗談だよ、元譲。お前にしか言えないさ、こんな事」
「兄貴……。兄貴の父上の事、軽蔑しているのか?」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ、父上の事はいつも敬愛している」
「俺も兄貴にだからこそ本音で話するんだが、彼が賄賂で成り上がった事に対して、引け目を感じているんじゃないのか?」
「それは誤解だ。自分の財産を使って目的を成すのは当然の事だ。そんな事で軽蔑や嫌悪などしない」
「へぇ。じゃ、なんでいつも叔父上に対して素っ気ないんだい?」
「俺が残念に思うのは、父上が、官職に見合う能力を持ち合わせていない……それが悲しいんだよ。逆に言えば、才能のある人間なら例え不義を犯していようと、然るべき役職を与えられるべきだと思う」
夏候惇は、まさに曹操らしい考えだな……と妙に納得している。曹操は続けて持論を展開した。
「とはいえ、天子が乱発している銅臭政治のおかげで、この都も混迷を極めている。官職を金で買った者は、さらにその利権を最大限に活かして汚職に手を染め、それが廻り回って結局は庶民に重税をもたらす原因になっている。こんな事では、治安が悪くなるなど当然の事だ」
銅臭政治とは、皇帝自らが官職を高額で売官し推奨していた事実を指す。皇帝の劉宏はかつて皇族に連なる一族であったが、皇帝として即位するまでは貧しい暮らしを母と共に過ごしていた。
先帝(桓帝)には実子がいなかった為に、運良く劉宏に白羽の矢が立ったのである。彼の母である董太后は皇帝である息子と共に売官制を乱発して、遂に最高官職である三公(軍事、行政、政策の三役)までをも短期制で売り払った。
皇帝(霊帝)はその金で私腹を肥やし、後には万金堂と呼ばれる巨大な金庫は、五銖銭という銅銭を貯蔵していた事から、世間からは銅臭(金銭の臭いがする)政治と呼ばれていたのだ。
「そうだな。まぁ、それはともかく、叔父上が高官になるのは、兄貴にとっても悪い話じゃないと思うぜ。俺も鼻が高いよ。さぁ、俺達も新しい任地で一花咲かせてやろうぜ、なぁ、兄貴!」
「ああ。お前といると元気が出るよ、元譲、ありがとな」
曹操にとって夏侯惇は、頼りになる義弟であり、絶対の信頼を置く無二の親友でもあった。二人は従兄弟でありながら、実の兄弟以上の関係で生涯を共に生き抜いていく事になる。
二人はその日のうちに雒陽を出て、馬車で頓丘県へと向かった。




