第三十一話 秘密
数日後、曹操は蹇碩らの推挙により兗州東郡、頓丘県の令(県長官)の役を拝命した。
表向きは法を厳守した功績を買われての昇任だが、実情は雒陽から遠ざけられ、中央との関わりを断ち切られた。
曹操は宮廷内の個室にて張譲より詔を直に受けた。
「よくぞ任務を全うしてくれた。その功績で私が頓丘の県令に推挙しておいた。栄転だな、孟徳。アレを取り返してくれたおかげで私も助かったよ」
アレとは一体なんなのか……。二人の間で判っていればそれでよかった。
「中常(張譲)殿。私は貴方の言う通り任務をこなし、あの物件も世間に漏れるのを防ぎました。なのに、表向きは県令に昇任だが、結局は地方へ左遷されたのと同じではありませんか?」
「何を言うかっ。お主が自身で招いた結果であろう。厳しく取り締まるのは歓心だが、撲殺してしまうのはやり過ぎだ」
「そうでしょうか。何度も言いますが、私はあくまで与えられた任務を遂行し、法を尊守しただけの事です」
「融通がきかない男だな。私が其方を庇い立てしなければ、とっくに罪を着せられて葬られておる所だぞ。其方を恨んでおる輩は大勢いるのだからな。青二才のくせに、上官達を弾劾する上奏文まで提出しおってからに。私が揉み潰していなければどうなっていたか」
こちらもお前を潰す材料は持っているぞ――と心中で呟いたが、やはり現実的に考えると今の曹操では、張譲に勝ち目など無い。口答せず大人しく従い、時期を伺うのが最善の策だ。
「有難う御座います。私の稚拙な正義感で朝廷を乱そうとしたこと、本当に愚かだったと思っております。常日頃から中常殿には感謝しております」
「ふん、本心からの謝罪ではないな。だが、許してやる。若気の至りという事で忘れよう。それに、私も君の御祖父様には世話になった。だからこそ目をかけてやっているのだ。時が来たらまた中央政界に戻してやる。それまではおとなしくしておけ」
「承知いたしました。その折にはまたよろしくお願いいたします」
「一つ教えといてやろう。知っての通り、宮中は陰謀で渦巻いておる。戻ってきてもこの陰謀の中に身を置く事となるが、大切なのは誰を主と仰ぐかだ。もちろん、私が言っているのは天子以外での話だぞ。金だけで権力を握れるほど甘くはないのだ、ここは」
「天子を差し置いてでも貴方を主人として仰げと。まるで、反乱でも企てておられるみたいですな。フフフ」
「しらばっくれるな、操よ! 貴様も判っているだろう。宦官の孫として侮蔑されたまま、このまま生きていこうというのか?」
曹操は張譲を睨んだ。普段は宦官の孫であるという事実など気にもしていないが、当の宦官に言われると歯がゆい思いがする。
「そ、それは……」
「何も言い返せまい。だが、今に見ていろ、いずれこの世界は私のような身体になった者でも、救われる世界となる。私についてくれば貴様もきっと感謝するに違いない。黄老の教えに身を任せれば、新しい世界が開けてくる」
張譲はじっと曹操の顔を見つめている。曹操の眼差しを全て受け止めるかのように。
「黄老の道ですか。もうすでに貴方からは返しきれないほどの恩義を頂いています。そして貴方が望む世界が訪れる日を心待ちにしております」
「そうだ。私の言う通りにしておけばいずれそうなる」
「わかっております。貴方を裏切るような真似は致しません」
「よかろう。では、達者でな。また会おう」
曹操は県令の印綬を拝命すると、静かに宮廷の外へと去っていった。
北宮の外に出た曹操を出迎えたのは夏侯惇であった。
「兄貴。張譲の様子はどうだった? 例のアレはそのまんま渡しちまったのか?」
顔を近づけ、小声で夏侯惇は話しかけてくる。
「渡したよ。ただし、張譲に渡したのは、オレが精工に模写した書簡の方だがな、ククク。アレを持っておけば、いざという時に頼りになるからな」
曹操の笑味には少しの自信が溢れていた。
「フフフ、さすがは兄貴だ。さぁ、オレも一緒に行くよ」
「ああ。だけど、都を去る前に一人、会っておきたい人物がいるんだ。大尉の橋氏に挨拶をしておかないとな」
曹操が会いたい人物とは、橋玄。字は公祖。
前漢より続く名家の出身で、河南尹という雒陽を含む河南郡の行政長官を務めていた。その後は三公(三つある最高位の総称)の職を歴任し、現在は三公の一つで軍の頂点である太尉という職に就いている。
「オレは先に荷物をまとめて出発の用意をしておくよ。劉夫人にはちゃんと話をつけてくてるのかい?」
「お前が直接話をしておいてくれよ。オレの息子が生まれてからどうも調子が悪いんだが、置いていくワケにもいかんからな」
曹操の后は劉氏から娶ったので、劉夫人と呼ばれた。長男の曹昂を産でからどうも体調が優れないらしい。
「な、何言ってんだ兄貴、オレが直接話を出来るわけないじゃないか」
現在では想像しにくいが、当時は自分の奥方を人に見せるというのは全くの論外、常識外れの行為であった。
「冗談だよ……ははは。妻の事は下女にでも頼んでおいてくれ」
夏侯惇は冷や汗をかいたように溜め息をついた。
「冗談キツイぜ、兄貴。とにかく、出発の用意をしとくから」
「ありがとよ、元譲。じゃぁ、太尉殿の所に挨拶に行ってくるよ」




