第十九話 青年・劉備
幽州の涿郡、涿県にある楼桑という村に、大きな桑の木の側にとある屋敷がある。
耳の大きい腕の長い腕白少年のあの劉備は、冠令の儀(成人式)を済ませ、 字をつけた。
この「玄徳」という劉備の字は叔父の劉元起から拝命した。いつか話した桑の木の前で出会った老人の話を叔父にしたら、叔父も「玄徳」という字を気に入って、叔父から字をもらうという形をとった。
熹平四年(一七五年)の晴天の早朝、家の玄関先で最後になるであろう草鞋を編む青年がいる。
「阿備(備ちゃん)、もういいさ。ささと行げ」
「阿備って言うでねぇ。この草鞋編んだら行っがらよ」
「もういいだよ、備。早ぐ行げ」
「急かすんじゃねぇだら。もう出来っがら」
劉備は草鞋を編みながら、もじもじした様子で何か呟いている。
「でさぁ、ががよ」
「ん? もう用意は出来だが?」
「オホンっ、い、今まであんがとな。オラも爺やオドぉみでえな役人になれるように頑張るわ。じゃぁ、行っでぐらぁ!」
少し照れながら母におべっかを使った。人生で初めてだったかもしれない。照れ隠しの為、最後に編んだ草鞋を履くと、即座に外に飛び出し、振り返りもせずに走り去った。
「ふん、不良息子が。ナニ言っでんだか」
と言いつつも、劉備の母は少し誇らしげに笑みを浮かべて、桑の木が生い茂る緑の向こうへと去ってゆく息子の後姿を見つめていた。
劉備は母の計らいで雒陽付近の学舎に遊学させてもらうのだ。後漢の時代は民衆の識字率が高く、学問が広く普及していた時代だった。
そして、親であれば子の将来のため、高等な学問を学んで欲しいと願う気持ちは、いつの時代も同じである。
劉備がこの度、教えを請う師は、盧植という人物は高名な儒学者である。
また、幾多の戦場で活躍してきた漢の名将でもあり、そしてその爵位は九江郡の太守(郡の長官)である。
この度は雒陽から程近い緱氏県の山中で、京師の太学(官僚を養成する為の国立大学)に行けなかった有望な師弟達を招き、主催者として学び舎の門戸を開くのだ。
盧植は療養と称して、故郷の涿県で儒学の著作に励んでいたが、行く末の見えない国家の将来を憂い、自ら有望な若い官僚を育てようと思いたった。
かつて盧植自身が学んだ場所である緱氏の山中で学舎を開く為、まずは故郷であるこの幽州涿県で師弟を募ってから出発する手筈だ。
楼桑村の土豪である劉一族といえば、劉備の祖父や父は、県や郡の長官を努めていた。
その縁もあってか、劉一族の中でも一番裕福で経済力のある劉元起の所に、同郷の盧植から師弟を募る話をもちかけらた。
劉備の父は夭折したので、母と子の二人暮しで草鞋売りを生業として生計を立てねばならぬ環境だった。
そんな生活では学費を捻出する事など、叶うはずのない儚い夢だったが、比較的に裕福な叔父の劉元起から、遊学の為の資金を面倒見てくれる事になった。
字の「玄徳」の名付け親である叔父が、彼の息子の徳然と共に、劉備の学費の面倒を見てくれるというのだ。
これには劉備の母による日々の努力も陰ながらあったのである。母は息子に、事あるごとに元起の長男の徳然の面倒を見てやれと言っていた。
劉備は少年の頃から札付きの悪童で、地元では向かう所敵なしの悪童軍団の親分であったが、徳然は常にいじめられているひ弱な少年だ。
母の助言で劉備は、徳然を何かと庇ってやっていた。それを知った叔父の元起は、劉備を実の息子のように目をかけた。
「おじき……いや、叔父上。この度の事は本当に有難うございます。今より勉学の為に身を捧げる覚悟であります」
劉備は慣れないお礼を兼ねて、徳然の迎えの為、元起の邸宅にやって来ていた。
「ははは。何を他人行儀になっでんだ。それより、徳然の事を頼んだべ?」
「もちろんだで、叔父上。さぁ、行ぐべ、徳然」
「ああ、う、うん」
まだ用意が整ってない様子の徳然だったが、劉備は気長に待ってやってるフリをしていた。
「だぁめだこりゃ。っだぐ、トロいなぁ、徳然は。ますます心配だな。ホント頼んだべ、玄徳」
叔父の元起はやたらと劉備に気を使っている様子である。
「おう。あ、いや……はい。勉強では徳然に色々教えでもらわねぇと」
頭のてっぺんを掻き毟りながらおべっかを使う劉備。
「へぇ。あの悪タレ小僧が、そんな台詞が言える様になっだがよ。こりゃおもしれぇ」
「用意でけましだ。父上、兄上」
抱えきれないほどの荷物を背負って徳然は立ち上がった。その瞬間、ガシャガシャっと荷物が崩れ落ちる。
さすがに劉備も、叔父の前で呆れ顔を隠せないほど焦燥感が募ってきた。
とりあえずグッとこらえて「しょうがねぇなぁ」と小声で呟きながら、徳然の荷物を持つのを手伝ってやった。学舎に向かう道中で荷を乗せる驢馬の所まで持っていってやった。
「なんで、あの子の学費まで面倒見てやる必要があんのよ。札付きの悪ガキだよ、あの子は」
息子の徳然を見送る為に、表へと出てきた元起の妻が、小声で夫にそっとボヤいた。
「だぁってろぃ。玄徳はなぁ、ちぃとばかりデキが違うんだよ、他のガキ共とはな。徳然をアイツに任せておけば大丈夫だで」
「何のデキよ。せいぜい悪ガキどものガキ大将が関の山だべ?」
「まぁ、聞げよ。玄徳の家の前にデカい桑の木があんだべや?」
「それが何よ?」
「オラがガキの頃から噂が立ってたんだけどもよ、あの立派な桑の木には王者の風格がある、ってな。あの木の下にある楼桑村の劉家からは、いつか高貴な人物を輩出するに違ぇねぇって、言われでたんだよ」
「それがあの備、だっつうのかい?」
「んだ。アイツ以外に有り得ねぇ。だからよぉ、おめぇはもう口を挟むんじゃねぇ」
「なんだべそれ、呆れて言葉がねえわ」
と、そんなやり取りがあった事も知らずに、劉備と徳然は少し離れた場所から手を振った後、驢馬を牽いて元起の邸宅を後にした。
「それじゃぁ、行っでぐるど」
劉備は振り返ると、もう一度元気よく手を振って別れの挨拶を済ませた。




