第一七五話 不測の出奔
「ここで決めろだなんて、無茶だ。夜逃げも同然の行為じゃないですか」
「なんとでも言えよ。だが言っておくぞ。俺は逃げる訳じゃねえ。南陽に向かうのは計画があるからだ。故郷の汝南に帰っても、董卓に目をつけられて動きが取れねえ。だから本初も冀州に逃げた」
荊州南陽郡は特に人口が多く、郡にもかかわらず一州にも匹敵すると言われている。
州都の宛城は雒陽に勝るとも劣らない大都市だ。南陽郡を手中に治める事が出来れば、天下に号令出来る可能性がある。
「お気遣いは有り難いが、どのみち南陽には行けない。従兄弟たちがここに来る予定なので」
「お前も董卓に目を付けられているのはわかっているだろ。ここにいたら危険だと言ってやってるのだ。本初(袁紹)や、孟卓の所へ行っても無駄だぞ。すでに董卓の手が回っている」
孟卓とは、若き頃より曹操の親友として交流していた張邈の字である。張邈も名士の一族で、董卓により陳留太守に任命されている。
「なんと言われようと、家族がいる以上、すぐここを離れるのは無理だっ」
曹操の振れない姿勢が袁術をさらに苛つかせた。袁術は小柄な曹操の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「一刻を争う事態なのが分からないのかっ。オレと一緒に来い。家族など後回しにしろっ」
「この手を離せっ。アンタは勝手に逃げるがイイ!」
掴まれた胸倉から手を引き剥がした曹操は、袁術を軽く突き離して自分の意志を示した。
「くっ、そうかよ。お前のためを思って言ってやってるんだっ。それなら好きにしろ。馬鹿野郎が!」
袁術は捨て台詞を吐いて曹操の前から姿を消した。やはり袁術は自分とは相容れないとわかった。
(くそっ――。今日は帰る気分じゃねぇ――)
曹操はムシャクシャした気分を紛らわす為、官服を脱ぎ捨てて普段着に着替え、雒陽城の外を出て東側にある、馬市の酒場へ一人で向かった。
馬市とは雒陽にある三つの市場の一つで、馬や牛の売買が盛んなことから、馬市または牛馬市と呼ばれた。
雒陽城外の南西には庶民らが集う南市、雒陽城内の北西には官吏らが集う金市がある。
馬市が最も雑多で人が集まる栄えた市場で、罪人の屍や首、刑の執行を晒される場でもあった。また、指名手配の人相書きの触書きも市中に晒される。
一人で夜通し深酒した曹操は、何軒か梯子した後で酔い潰れ、市場近くの馬小屋で藁に包まって寝てしまった。
冬の寒さで夜明け前に目覚めると、曹操は暗がりの雒陽城の門前で門が開くのを待った。夜は治安維持の為に全門が閉じられ、朝の開城は鶏の鳴く音で門を開く。
曹操は城内での政務に就くため、自邸に戻らず寒さに震えながら開城を待っていた。
その時、ふと近くにある御触書きが気になり、側に寄って内容を確かめてみた。
「典軍校尉―― 曹孟徳 ――この者は董相国に盾突き反乱を目論んだ奸賊なり。曹孟徳の特徴は……背が低く切れ長の目で……」
(ば、馬鹿なっ、何故このオレが――)
驍騎校尉の印綬を授かって一晩しか経っていないのに、反乱を目論んだ奸賊として自分が指名手配されている。理解を超えた出来事だ。
(どういうことだ、夢でも見ているのか。そういえば、ないっ。無いぞ――! 驍騎校尉の印綬がないっ。まさかあの時――)
あの時……袁術が激昂して曹操の胸倉を掴んだ時だ。奴が、驍騎校尉の印綬をはぎ取ったに違いない。そう考えればこの事態も説明がつく。
印綬を無くし、今の今まで気づかなかった自分の馬鹿さ加減にも腹が立ったが、袁術が印綬を盗んで自分を罠に嵌めた事に、沸き起こる怒りを禁じ得ない。
「曹操は印綬をかなぐり捨てて故郷に逃亡しました。反乱を目論んでいるに相違ありませぬっ」
――とでも董卓に密告したのだろうか。
実のところ、袁術は印綬を届けて曹操の叛意を告げると同時に、百郡邸(武家屋敷)の中にある、曹操の邸に伝言を持たせて使者を送っていた。
「袁将軍から伝言ですっ。旦那様に凶報あり、という事でした! 早く京師を離れなければ災いが起こると!」
昨日、既に曹操が帰宅したと思っていた袁術の使者は、凶事が起こるから雒陽からすぐに出ろ、と曹操邸の召使いに伝えた。
「旦那さまっ、旦那さまは? まさか……」
凶事と聞いた召使いは、勘違いして曹操が死んだと思い込んだ。
肝心の曹操は、一晩中飲み歩いていたので行方不明、報せを聞いた邸の連中は大騒ぎになった。すぐにでも故郷に帰ろうという話になった。
「旦那さまがいないなら、我々がここにいてもしょうがない……」
「皆さん、待って下さいっ。ご主人様が凶事に会われたという、確かな情報はまだ得ていません。もしご主人様が帰ってきた時に誰もいないのでは会わせる顔がありませぬ。私はご主人様の亡骸を見るまで、死んだなんて……決して信じません。それに万が一、ご主人様が亡くなっていたとしても、わたし達だけがおめおめと故郷に帰れますか。たとえここで死のうとも、わたしはそれで本望ですわ」
皆の動揺を鎮めたのは、側室の卞蓮である。
曹操は愛妾を雒陽に連れて来ていた。二歳になる曹操の息子も一緒だ。側室とはいえ卞蓮の言葉に誰も逆らえない。
「卞妃がそこまでおっしゃられるなら……。我々も従います」
むしろ皆の決心がついて団結力が増した。卞蓮の指示により、曹操の生死を問わず、両方の意味ですぐに旅立てるように身辺を整理をした。
そして曹操の帰りを一晩待った。曹操邸の周りには董卓の放った見張りが、数名ほど突っ立っている。
曹操邸の者達がすぐ捕縛されなかったのは、百郡邸に住む他の群臣への動揺を防ぐ為であった。
(おい、起きろ。蓮、今すぐ起きるんだ――)
小声だが力強い声で、卞蓮は目を覚ました。まだ真夜中の暗闇で、見慣れた顔が月明かりに照らされていた。
「はっ、旦那さまっ」
(しっ、声が大きい――)
暗闇に紛れて邸に入ってきたのは、指名手配中の曹操その人だった。
(今から皆を起こすんだ。すぐに京師を発つ。おれたちの故郷に帰るぞ――)
(でも、外には見張りの者がたくさんいますわ――)
(外の見張りは俺が全て片付けておいた。日が昇る前にここを離れなければ、我々の命はない。今すぐにでも出て行くぞ――)
あらかじめ身辺整理を皆に言付けていた卞蓮のおかげで、即座に曹操邸の縁者たちは飛び起き行動した。卞蓮は幼い息子を紐で縛って背負った。
「だ、旦那さまが生きていたっ」
(しっ――、静かに――。喜ぶのはまだ早いわ。皆すぐに発ちましょう――)
卞蓮は、生還した曹操によろこぶ縁者たちを落ち着かせ、静かに行動するように促した。
その姿を見た曹操は、卞蓮を雒陽に連れて来たことを誇らしく思った。
(よし、みんな俺について来い――)
曹操を先頭に、一行は闇夜の百郡邸を忍び足で立ち去った。そして雒陽の城下町を月の影に隠れながら東へとひた走った。
(朝になればオレの邸宅を見張っていた兵が倒れているのに、誰かが気づくだろう――。そうなれば追っ手が差し向けられる――)
日が昇る前にできるだけ、雒陽から離れなければならない。故郷の沛国譙県への道のりが果てしなく遠く感じられた。