第一六九話 赤兎
「実は……、西園で飼われている名馬を一頭、所望したいと言っているようです」
「馬? 馬が欲しいのか。造作もない事よ。一頭と言わず好きなだけ連れて行け」
「良いのですか……? 西園の名馬は、陛下の許可なく与えて良いものではありませぬ……」
雒陽城内にある西園には、皇帝が所有する名馬が数多く飼われていた。だが、度重なる戦費が嵩んで多くが戦で使われた。現在は数十頭しか飼われていない。
それは決して董卓が手を出してはならない聖域であった。
「良いに決まってるだろ。ワシは天下泰平のために広く人材を求めているのだ。いわば陛下のため、遊ばせているだけの馬を有効活用しようということだ」
李儒はたじろいだが、若き皇帝よりも遥かに恐ろしい董卓こそが権力者なのだと、改めて思い知らされた。
「了解しました。天下の名馬“赤兎”を届けて、必ずや呂奉先を帰伏させてみせましょう」
古来より、大顔の馬は遅足で、兎のように小顔の馬は俊足とされた。赤兎は巨躯でありながら兎の如く俊敏で、赤茶色の体毛をしていた。
「うむ。名馬には名戟がつきものだろう。ついでに方天戟もくれてやれ」
「御意」
方天戟とは槍の左右に三日月型の刃が付いた多用途の武器だ。
皇帝救出の報奨で賜った武具の一つだが、扱える人間はいないと考えられた。あくまで儀礼用もしくは観賞用に作られた武器だからだ。
しかし、もし扱えるとなれば相当な威力となる戟であろう。
方天戟を董卓から預かった李儒は、部下数人を連れて西園の厩舎へと向かった。呂布の旧友である李粛とともに。
「頼んだぞ……。天子の厩から許可なく頂戴するのだからな……」
「わかっている。奉先のことは任せておけ」
赤兎は駿馬の誉れ高いが、気性の荒い暴れ馬だ。李粛一人では抑えきれず、数人がかりで赤兎の手綱を引張り、無理やり厩から連れ出した。
また、方天戟もかなり長い武器なので二人で持って運んだ。
(こんな馬と武器を扱えるなんて、どんな男なんだ――)
赤兎と方天戟を目の当たりにした李儒は、空恐ろしい感覚を味わった。
雒陽城の北側に駐屯していた丁原の軍は、董卓軍に劣らぬ獰猛さを秘めている。
李粛は秘密裏に呂布の陣営に入り込み、そこへ赤兎を連れて行き呂布に目通りさせた。
「奉先、久しぶりだな。約束してた赤兎と方天戟を持ってきたぞ。これで約束の首を……頼む」
李粛も呂布と同じく、最北端の并州の五原郡の出身である。同郷である事は家族や仲間である事に等しく、親近感や信頼感すら持てた。
「おう、任せとけ。あのオヤジ………いや、丁原の首、すぐ持ってきてやる」
そう言うと呂布は赤兎の手綱を掴んで頬を撫でてやった。誰にも懐かなかった荒馬の鼻息が途端に静まった。
「すげえ馬だな……。今日から俺がお前の主人だ、よろしくな。――よし、そろそろやるか……」
呂布は長い方天戟を手に取り、丁原のいる宿舎に向かって行った。丁原の宿舎には、并州きっての猛者である呂布の部下らが集まっていた。
「飛将!」
「飛将軍!」
呂布を慕っている者たちが、皆それぞれに声を上げて挨拶をした。飛将とは、前漢の名将”李広”の渾名である。当時、敵対していた北方異民族の匈奴から、神出鬼没の神速で「飛将軍」と畏敬された。
幕舎の奥にいる丁原は、椅子に腰掛けて背を向けていた。元々、椅子は異民族の好む家具だ。呂布が入って来ると、少し首を横に傾けた。
「こんな夜中になんのようだ、奉先。やかましいぞっ」
「悪いが……オヤジの首が、欲しいんだよ」
「ああ? 寝言ぬかすんじゃねぇぞ」
丁原は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、形相険しく呂布を睨んだ。
「安心しな。素直に首をくれとは言わねぇ。せめて最期は戦って死なせてやる」
そう言うと呂布は、大きな矛を丁原に投げ渡した。その矛は丁原の自前の武器である。丁原は横に放り投げだされた矛をすぐに手にした。
「董卓に唆されたのか。クソがっ! 孤児のてめぇを育て上げて、一端の男にしてやったのは、誰だと思ってやがる!」
背は八尺(約一八五センチ)、前頭部から禿げており、髪も口髭も白い毛が多い。
五十歳は超えているだろうが筋骨隆々の肉体で、三十歳になったばかりの呂布にも劣らぬ体格を有している。
「主簿にもしてやったし、厳氏の娘も嫁がせてやった!」
「育ての恩は忘れちゃいねぇ。だが、主簿にしてくれとか、嫁をくれとか、頼んだ覚えはねぇな。ま、最後は男として死なせてやる。ありがたく思えよ」
「後ろにいる奴らも、奉先に唆されたのか」
呂布の後ろに控える将たちは、誰も丁原の問いに答えなかった。誰も答えない代わりに呂布が答えた。
「そうじゃねぇ。アンタには散々しごかれたからな。鬼のしごきと無茶な戦で死んだ奴も多い。部下を駒としか考えねぇ奴に、誰が恩義を感じるっつうんだ?」
「ほざけ。強い奴だけが生き残る世の中だ。お前もよく分かってるだろうが」
「なら、俺が今から襲ってやるから、生き残ってみろや」
呂布は方天戟で構えた。方天戟の長さは異様だ。柄は鉄製で二丈(約五メートル)もあり、振ると竹のように撓る。
「クソ野郎、吐いた唾のむんじゃねぇぞ。表ぇ出ろや!」
幕舎の外に出た二人は、大勢が見守る中、それぞれの武器を持ち睨み合う。
丁原は禿頭に頭巾を被って紐を締めた。呂布は首巻きにしている朱色の布を少し緩めた。
「うおりゃあ!」
最初に打って出たのは丁原だ。初老の男とは思えぬほど、凄まじい一撃を打ち降ろした。呂布は戟で攻撃を防ぐが、衝撃で後ろに蹌踉めいた。
「歳の割にやるじゃねぇか」
丁原は続けて凄まじい連打を唸るように放つ。
「戦い方をてめぇらに教えてやったのはこのワシだっ! 本気で打ってこい!」
するどい丁原の攻撃を難なく受け躱し、涼しい顔さえ覗かせる呂布。
「それじゃ、遠慮なくやらせてもらうぜっ」
防戦一方に見えた呂布が反撃に転じた。丁原の攻撃を紙一重で躱すと、長駆の方天戟を振り上げて宙に飛び上がった。
「でやぁっ!」
(――ガキィイン――!)
鋼鉄が激しくぶつかり合う金属音が、二人を取り巻く陣営の内外に、広く響き渡った。
その後すぐに瞬間的な静寂が、見物をしている兵たちを襲った。やがて注目は丁原の動きに集まった。
よろめき出した丁原の頭頂部から血が吹き出し、声もなくそのまま後ろに倒れたのだ。
呂布が反撃に転じてから、たったの一撃でトドメを刺したことになる。
「うおおっ! 飛将どの、お見事です!」
兵や将からドッと歓声が上がった。皆、一様に呂布に同調していた。
丁原は呂布が振り下ろした一撃を矛の柄で受けたが、長い方天戟がグイと撓って、戟の穂先が丁原の脳天を直撃したのだ。
「首だ。首を獲れっ」
呂布は部下に命じて丁原の首を取らせると、自信満々の笑みで首を掴み上げた。生首を布で包み長戟の先に吊るし掲げ、そのまま方天戟を両肩に担いだ。
するともう一度、兵たちの歓声がとめどなく起こった。
「こりゃあ、使い勝手のいい戟だ。矢よりも鋭い」
呂布が得意とするのは絶技の弓術だが、戟(槍)を取っても神業を披露する。
「そんじゃ、京師に行ってやろうじゃねぇの。董将軍に会うのが楽しみだぜ」
部下たちの歓声の中で呂布は、養父だった丁原を殺して何の後悔も懺悔の気持ちも持たなかった。
そして、部下たちが手綱を引いて連れてきた赤兎に跨り、部下たちの前で咆哮をあげたのだった。




