第一四三話 乱世波及
二年前に遡るが、涼州反乱討伐の総帥、車騎将軍の張温が罷免された中平三年(一八六年)の冬。
涼州反乱軍の首謀者の一人である韓遂は、共に反乱の旗揚げをした、辺章、北宮伯玉、李文侯を騙し討ちで殺し、その軍勢を全て自分のものとした。
さらには、殺された北宮伯玉の一派、漢陽郡出身の王国という人物が台頭しており、韓遂は彼を反乱軍の盟主に祭り上げた。
加えて、隴西郡を反乱軍に包囲されていた太守の李相如までが寝返って、涼州の反乱軍の規模は膨らむ一方であった。
翌年の中平四年(187年)四月には、涼州刺史となった耿鄙が六郡の郡兵を率いて、王国ら反乱軍の討伐に乗り出す。
かつて皇甫嵩の司馬を務めた傅燮は趙忠に楯突いた為に左遷となり、涼州漢陽郡の太守の任に就いていた。
傅燮は時期が熟していないとして耿鄙の賊討伐を諌めた。耿鄙は聞き入れずに王国の討伐に向かった先で、部下の寝返りによって殺されてしまう。
涼州刺史の耿鄙が死んだ事で官軍は総崩れとなり、王国らはそのまま勝ち進んで漢陽郡を包囲して降伏を勧告した。
普段から善政を敷いていた太守の傅燮は、部下たちから「貴方だけでも逃げて下さい」と進言されたが、逃げずに最後まで一緒に戦う事を誓い、ついに戦死してしまった。
そして中平六年(188年)十一月、傅燮と同じく宦官の讒言によって、戦場から遠ざかっていた皇甫嵩は、遂に涼州反乱軍の討伐で左将軍に復帰した。
黄巾賊討伐の立役者である皇甫嵩は、かつて右腕として活躍した傅燮の弔いも込めて討伐に望んだ。
王国ら反乱軍が、長安に近い陳倉県に進行し、陳倉城を包囲しているとの報を受けた。
皇甫嵩は、前将軍に昇進したばかりの董卓と共に四万の兵卒を率いて、救援の為に陳倉に向かう。
しかし、皇甫嵩の行軍はあからさまに遅く、功を焦る董卓をイラつかさせた。
「左将軍! 何故、急がないのですかっ! 陳倉の小さい城では、持ちこたえられんっ」
「王国は、賊ながら精強と聞いています。あんな小さな城もまだ落とせないのだから、よほど攻めあぐねているのでしょう。このまま放置しておけば、陳倉を落とせぬままに兵糧不足で退却します」
皇甫嵩はそう言って董卓の意見をさらりと斥けた。
皇甫嵩の予想通り、王国は八十日余りもの間、陳倉城を攻めたが陥落させることができずに、翌年中平六年(189年)の二月、遂に退却の準備を初めたようだ。
すかさず皇甫嵩は追撃することに決めたが、董卓は嫌味たっぷりに注文をつけた。
「兵法にも、敗走する敵を追うべからず、というではありませんか。窮鼠猫を噛むという諺もあります。そもそも、救援をわざと遅らせた貴方が何故、今になって追撃する道理があるのですか?」
「私が行軍を遅らせたのは、勢いづく賊軍の疲弊を待っていたからです。いま追撃するのは士気の下がった賊軍を討つのが容易いからです。疲弊して退却するのと追い込まれて退却するのとでは士気の差は大違いですぞ」
皇甫嵩は渋る董卓に殿軍を任せて自軍のみで王国らを追撃した。結果は大勝利を収め、一万余りの首級を挙げた。
この件で董卓は自分の進言を退けられ、皇甫嵩の一人勝ちを許してしまった事を恥じ、さらに皇甫嵩を逆恨みするようになっていた。
そして王国は辛くも逃げ延びたが、韓遂に敗戦の責を問われて涼州から追放されたという。
反乱軍の敗戦の後、かつて佞言で皇甫嵩を反乱へと促そうとした閻忠が、盟主を失った韓遂ら反乱軍に担ぎあげられた。
漢陽でたまたま信都県令をしていた閻忠は、半ば無理やりに拉致された上に、反乱を起こした賊軍に盟主として祭り上げられた。
野望多き閻忠も、さすがに反乱軍の盟主となるのを恥じ、心労で病を発して死んだ。
その後、韓遂らは盟主のいないまま、遂には権力争いで互いに小競り合い、自滅する形で涼州の反乱は一旦終息する。
涼州での大規模な反乱は収まったとはいえ、韓遂は未だに健在で、いつまた反乱を起こすかわからない状況である。
反乱が巻き起こっているのは、涼州だけではない。ほぼ全州に渡って規模の大小があるにしても反乱は続いているのだ。
雒陽の北にある白波山を中心に河東を荒らし回った楊奉と韓暹らを首領とする白波賊。
冀州北部を中心に暴れ回っている百万を号する黒山賊の張燕。
幽州では張純と張挙が、烏桓族の大人(族王)である丘力居とともに反乱を起こした。
……など、枚挙に暇がないほど乱が立て続けに巻起こっている。
白波賊や黒山賊も黄巾賊の残党だが、後になってから朝廷に帰順している。朝廷に討伐するほどの余力がなく、懐柔策をとったからだ。
もともと、張純と張挙はれっきとした漢の将であった。二人は幽州漁陽郡の出身でそれぞれ、中山太守、泰山太守を努めていた。
張純は涼州討伐で従軍を求めるも、太尉の張温に拒否された。代わって討伐軍に抜擢されたのは、かつて劉備が兄と慕った公孫瓚だ。
従軍を拒否された張純は、その腹いせに同郷の張挙と共に反旗を翻し、烏桓族の丘力居を抱き込んで、幽州の州都である薊を中心に暴れ回った。
張挙は自らを天子と称し、張純は弥天将軍と称して、近隣の北平郡や遼西郡を攻め、太守らを打ち首にした挙句、官民問わずに人々を自領へと連れ去った。
こうして張純の反乱は十万人規模の蜂起となり、涼州の反乱にも匹敵する大乱となった。
このため、幽州出身で北方の実力者である公孫瓚は、涼州討伐の従軍を取り消され、張純らの討伐で幽州に赴任するよう命じられた。
故郷で地の利を知る公孫瓚は、白馬義従という最強の騎馬隊を操り、遼東付近の石門山での戦いで張純らを反乱軍を撃破した。しかし、首謀者を捕らえる事は出来なかった。
逃亡した張純とは北の鮮卑族を頼って落ち延びようとした。烏桓族の長である丘力居は、張純を追って遼西郡の管子城に来た公孫瓚を包囲、数百日の籠城戦のあと、両陣ともに兵糧が底を尽き撤退した。
今年、皇帝直属軍である西園軍が創設されたばかりの朝廷では、各地で頻発する反乱を押さえるほどの余力がない。
それ故、皇族や信頼できる人物に、州牧の権限を与えて統治させようという思惑があった。
事情を見越した皇族の劉焉が、各州の実質的な行政官である「刺史」を廃して「牧」を設置すべきだと朝廷に提言した。
刺史というのは州の監察長官だが、時と共に行政長官として役割を帯びるようになった。名目上でなく、実質的な権力と軍権を併せ持つ牧制に改めよう、と提言したのである。
前漢時代から牧という官職は存在したが、地方自治の権限を強大にすると、反乱の火種になる恐れがあるため廃止されていた。
州牧制が復活したから。刺史という官職が廃された、かと言えばそうではない。刺史と牧という制度はしばらくの間は併用されたまま続いていく。
この後、同じく皇族である劉虞が初めての幽州牧に就いた。献策した劉焉も益州牧に自ら就いた。予州牧にはかつて陳蕃とともに清流派の代表格であった、黄宛が任命された。
混乱が続く中原の地を避けて、僻地と言われている益州を統治し君臨しようという、劉焉の魂胆があった。そして、まんまと彼の計画通りになった。
中華を覆い尽くそうとする反乱の嵐は、海に囲まれた山東半島を領する青州においても、尽く吹き荒れようとしていた。




