第一四〇話 忠誠心
「では、話を仕切り直そうか」
「話の前に、質問があります」
「ほう。何かね、質問とは」
「張中常の陰謀から、私を庇護してくれたと聞いたのですが、それは本当でしょうか?」
「うむ、そうだな。まずは座って話そうじゃないか」
蹇碩は幕舎の奥にある机まで曹操を案内すると、食事と酒が用意されてあり、二人は腰を降ろしてお互いに酒を注ぎあった。
「さっきの君の質問だが、張中常についてだったね」
「ええ。私は貴方の叔父を殺した仇だった男ですよ」
酒を注ぎながら蹇碩の目を見る曹操。蹇碩も曹操の目から視線を離さなかった。
「張譲は次第に目の上のコブとなっていた。趙忠と組んで朝廷をやりたい放題に荒らし回ってきた。だが、目の上のコブとはいえ、あの憎き何進とその一族を滅ぼす為にはまだ必要なコマなのだ」
蹇碩もまた曹操の目を見ながら酒を注いだ。お互いに相手の目を離さずに適量の酒を注ぎあった。酒をぐいっと一息で呷ると曹操は単刀直入に言い放つ。
「これまた穏やかではありませぬな。そんな話をここで打ち明けるとは」
「酒の席でもなければ話せやしない。それに君も知っている筈だ。何進が宦官を一人残らず抹殺しようとしている事をな」
もう一度盃に酒を注ぎ直す蹇碩の目を見て、曹操は彼の腹の中を見た気がした。宦官を抹殺するという事は、曹操の出自すらも否定する事になる。それを蹇碩は見透かしている。
「そんな話は知りませんな」
素知らぬ振りをした曹操だが、何進と袁紹の計画が蹇碩に漏れていた事に驚くと当時に、その暴挙を黙って見過ごしていいのか、と問われた気がした。
「誤魔化すな。君の兄貴分である袁紹が音頭をとって何進を動かしているのは先刻承知だ。だからこそ陛下に直訴して大将軍である何進すらも私の管轄下に置いた。袁紹や何進の好き勝手にはさせぬ。君はあの二人の駒として働いてはならない。宦官を犬畜生ほどにしか思っていない奴らだ」
全てお見通しと言わんばかりの蹇碩の言葉に、曹操は少々たじろいだ。
「そこまで情報を掴んでいるとは……」
蹇碩はニンマリして、曹操の盃に酒をとくとくと注いだ。
「やはりそうか、フフフ。私の見立ては間違いではなかったという事だな」
ハメられた! 蹇碩は自分の洞察を確信にするため、曹操を自分の幕舎に招いたのだ。
しかし曹操は注がれた酒を飲み干すと荒い口調で言い返した。
「してやられましたな。とは言え、私は誰の陰謀にも荷担するつもりはありませんぞ。どういうつもりか知らないが、私に片棒を担がせて陰謀の渦に引き込もうとする輩が多過ぎる」
蹇碩は笑って曹操の盃にまた酒を注いでやった。
「はっはっは。それが君の本音か。なかなか面白い。君のような逸材を誰もが望んでいるということだな。たが、誰に付くかを見誤ると、己だけでなく一族の破滅を招くぞ」
自分の優柔不断さを指摘されたようで、曹操は歯痒い思いがした。蹇碩の言葉はいちいち的を得ている。想像以上に老獪な人物だ。
「言っておくが、今や皇帝陛下の寵愛を一身に受けているのは私だけだ。張譲や趙忠、何進なども媚を売って一時的に良い待遇を得られたかもしれないが、真の忠誠心ではなかった。だから、稚拙な虚栄心を見破られて結果的に信を失ったのだ」
「あなただけが陛下の寵愛を一身に受けているなどと、どうしてそんな事が言えるのですか?」
「では教えてやろう。陛下は、張譲や趙忠に誑かされてきた事に気付き始めたのだ。かつては私も、あの二人の陰謀に荷担したが、今はあの頃の事を本当に恥じている。心を入れ替えて忠臣としての仕え方を模索している所だ。そんな矢先に屠殺屋の何一族が宮廷内にズケズケと入り込んできて朝廷内を掻き回し始めた。そして陛下は少しづつお気付きになり始めた。外戚や宦官に振り回されていたご自身の姿にな。だが、陛下にはその本心を打ち明けられる家族や友人などはいなかった、この私を除いてはな。まぁ、考えてみれば当然の話だ。いかに皇帝陛下が唯一無二の存在であると言っても、一人の人間である事にかわりない。皇帝である事がかえって陛下のお気持ちを苦しくさせた。私は常に陛下の忠誠心を本音で訴えかけてきたからこそ、陛下の信任を得ることができたのだ」
「では、貴方を超える忠臣はいないと?」
「その通り。だからこそ私には大将軍の何進をも直下に置くほどの権限を任されている。それが上軍校尉なのだよ。中軍校尉の袁紹とは雲泥の差がある。さて、ここから先は君の確たる覚悟と意気込みを知りたい。どうだ、私に付いて陛下の御心の安寧と漢室の窮状の恢復の為に、全てを捧げる気はないか?」
一瞬の静寂が幕舎にいる二人の空気を包んだが、この時の曹操に怯む気持ちは微塵もなかった。
「微力ながらも田舎から遥々と京師にやってきたのは、陛下に身命を賭してお仕えし、漢室の社稷を揺るがす蛮族を蹴散らす為。しかし、余計な派閥争いに首を突っ込むのは止めておきますよ。先程も言いましたが、私の本分は陛下にお仕えして漢の社稷を護ることにあります」
「それならば尚更この私に仕えることだな。何故なら、私こそが唯一、陛下の代弁者であるからだ」
ここまで確信を持って言うのだから、蹇碩が皇帝の厚い信頼を得ているのは間違いないだろう。
「貴方が陛下の唯一の代弁者だというのなら、それが陛下の御意向だというのなら、従わざるを得ないのでしょうな」
「そうだとも、私の行動はすべて陛下の御心に従っているだけの事よ。その心掛けを忘れぬようにな。さぁ、どんどん飲んでくれ。おい、脩! 酒が足りんぞ、持ってきてくれっ」
蹇碩が外にいる誰かに叫ぶと、すぐに召使いが酒を持ってきた。
男ではなかった。男の体躯だが髭は生えていない。歩き方はぎこちなく、まるで歩くのが慣れていないようだった。
「こいつは今年に宦官になったばかりだ。なぁ、蘇脩」
蘇脩と呼ばれた若い宦官は、力なく静かに頷いた。まるで幽霊のような薄気味悪さを感じる。
「私が宦官になった時も、他の者たちより遅かった。二十歳くらいの頃だ。止血の為に腹と足をきつく縛られ、腰の感覚が無くなった頃に棒を斬られるんだよ。地獄の苦しみが始まるのは次の日からだ。激痛の中、飲まず食わずで三日間を過ごさねばならん。そして尿道にはめられた栓を抜かれると溜まった尿が溢れだす。そうすれば一安心だ。小便がでなけりゃ死ぬだけだ」
曹操は酒の酔いが冷める思いだった。それでも蹇碩は話し続ける。
「それから身体が動けるようになると、宮中での仕事や礼儀作法を徹底的に教えこまれた。同時に、自分の身体が変化していくのがわかった。髭は抜け落ちて生えなくなり、尿意を制御する事ができなかった。最初のうちは毎日のように垂れ流しさ。そして足腰の力が衰えていくのがわかった。それが嫌で私は身体を鍛えた。だからこの身体を維持できたのだ」
陰茎と陰嚢を失うと身も心も女性のようになるという。だが、蹇碩には他の宦官にはない男気を感じる。髭がなくとも見た目は男そのものだ。
「この蘇脩にも身体を鍛えさせるつもりだ」
蹇碩は自慢気に蘇脩に問うた。曹操はまじまじとその宦官の顔を見る。
「君、どこかで会ったような気がするんだが、覚えてないか?」
突然のように曹操は蘇脩に尋ねた。
「いえ……」
と蘇脩は小声で返事した。
「そうか。失礼したな」
蘇脩は一礼するとすぐに幕舎を出た。
その晩、二人はひたすら酒を飲んだ。蹇碩は酒を飲みすぎたようで、外にいる蘇脩を呼んで介抱をさせた。
曹操が蹇碩の幕舎を出て自分の宿舎に帰ると、月明かりが雲に架かっていた。




