第一三四話 許攸
曹丕が生まれてまだ間もない中平四年。明けたばかりの冬で溶け始めた雪が滴る木々の中。蹄の跡を残しながら馬を駆って、かつての友人が譙県へと訪れた。
「子遠……。子遠じゃないか。どうしたんだ、こんな所まで」
曹操は城の外にある卞蓮の家屋で、訪ねてきた古い友人を出迎えた。
「君に会いたくて、ここまでやってきたのさ」
子遠は字で、姓名を許攸という。雒陽で若かりし頃、袁紹や張邈とともに、青春時代を過ごした盟友であった。
暫し談笑した後で、許攸はひと目のつかない場所に案内するよう、曹操に催促した。そこで二人は県城から離れた場所を、馬で遊歩する事にした。
「やけに悲壮な面持ちだが、何があったのだ?」
単刀直入に曹操は聞いた。許攸も彼の性格をよく分かっている。
「今から話すのは、それこそ悲壮な……国事だ……」
「ほう。そりゃあ、只事じゃないな」
「君は王冀州を知っているか。清廉で有名な士大夫(政治家)だ」
「名前は聞いた事がある。確か、王芬という名だったか。皇甫中郎将の後任で冀州の刺史になったと聞く」
「なるほど、それなら単刀直入に話そう。王冀州は、新帝擁立を目論んでいるっ」
曹操は細い目を丸くして、許攸の言葉を喉を詰まらせた。
「新帝擁立だと? 何を言っているんだ……。まさか、その企みに君も絡んでいるってんじゃないだろうな?」
「そのまさかだよ。早速だが、今からその計画を君に打ち明けたい……」
あくまで冷静に話そうとする許攸は、口早ではあるが計画の内容を曹操に説明し始めた。
冀州刺史の王芬を筆頭に、南陽の許攸、沛国の周旌、汝南の陳逸、術士である平原郡の襄楷などの豪傑たちと結託して、現皇帝である劉宏を廃立しようというのだ。
そして代わりに皇帝の血族である合肥侯の劉弦を擁立せんと、謀議を重ねているのだという。
陳逸は、宦官の曹節や王甫を投獄しようとしたが、逆に諫言によって刑死した清流派の代表格、陳蕃の子である。
彼は天文や陰陽の術士である、襄楷の占術を信じ、二人で王芬に皇帝廃立を立案したのだという。
「公矩(襄楷の字)殿が言うには、星の巡り合わせで宦官らに凶兆が出たという。黄門や中常侍といった宦官どもは、一族郎党は滅亡するというのだ」
「信じられるのか? 公矩とかいう術士の言う事を」
「もちろん信じる。公矩殿は高名な方術士だ。王冀州も、それならば、彼らを除き去る役目を果たそう、と言ってくれたのだ」
「して、どういった策なのだ?」
「ちょうど帝が、冀州河間県の旧宅に巡幸する予定があるそうだ。帝が京師を留守にした隙を突いて革命を起こす」
現皇帝の劉宏は、河間国出身の皇族だ。先帝の劉志(桓帝)に実子がいなかった。それ故、同じ出身地の劉宏が擁立された。今回の巡幸(皇帝の旅行)は、皇帝の故郷に錦を飾る意味もあった。
「革命だと? それでは謀反と同じではないか。そもそも整った軍勢もなしに政変を起こすなど、無謀そのものだと思わんのか」
「無謀ではないっ! 計画に抜かりは無い。兵はな、帝より頂戴するのだ!」
「何!?」
曹操はまたも目を円にした。
「黒山賊が、河北の郡県を荒らしまわっているのは知っているだろう。だから上奏して、黒山賊を討伐する為の軍を拠出(招集)させるのだ。王冀州が自ら上奏し、先頭に立って指揮してくださるそうだ。賊の討伐軍によって京師を制圧し、合肥侯を擁立するという筋書きだ」
顎鬚を摘んで下を向き考えこんでいる曹操。そして許攸に目をやった。
「ふむ。確かに、君の話だけを信ずれば、理に適っているように聞こえるが、そんな容易に筋書き通りいくとは思えんな」
「それは、やってみなければわかるまい」
許攸には実行力があり、一度決めた事は頑として譲らない男だ。しかし、名門の出身らしからぬ卑しい面もあった。だから曹操は端から許攸の言う事に、疑問を持たざるを得なかった。
「なぁ。何故、俺にこの話を打ち明けたのだ」
「それは、君もかつては同じ志と抱いた奔走の友だからだよ」
「同じ志とは?」
「わかっているじゃないか。清く澄んだ川のように曇りなき流れに沿って生き、そして国家に忠誠を尽くすのが、俺たちの志だったのではないか!?」
許攸は少し興奮状態にあるようだ。熱しやすく冷めやすい男に有りがちな稚拙な短気さを曹操は訝しんだ。
「清流か。そう呼ばれていたときもあったな。して、本初殿や孟卓には話したのか?」
「いいや。君は、彼らと連絡を取ってないんだな。本初殿は大将軍の属官に取り立てられ、今は虎賁中郎将のご身分だ。で、屠殺屋の何進とべったりの仲になっている。孟卓もまた騎都尉になって京師にいる。だから、二人は宛にならん。いいか、この計画は用意周到に行われている。あの二人が天下の義士であるというのは認めるが……イザとなると何もできんだろう。その点、君なら若くして要職を歴任しているし、騎都尉として戦場に立ち、華々しい戦績もある」
「ふん。孟卓だって、騎都尉じゃないか」
「兵を率いての実戦経験があるのは、君だけだ。もしもの場合は、京師での戦いも辞さない覚悟だ。君でなければ務まらぬだろう」
曹操は沈黙した。許攸は自分を矢面に立たそうという考えなのか。賊を相手に戦陣に立つならまだしも、京師での反乱に手を貸すなど考えもつかない事だ。
「そんな話には乗れん。天子を廃立して新帝を擁立するなど、正気の沙汰じゃないぞ。いいか、王冀州では、伊尹や霍光にはなれんぞ。彼らが暗愚な王を廃して新王を擁立できたのは、綿密な計画と諸侯百官の同意があったからこそ成し得たのだ。そもそも、合肥候がどういう人物かも知らんし、例え革命が成功して新帝が擁立されたとして、それで今の世がすっかり改まるとは到底思えない。悪いことは言わん、君もその計画から手を引いた方がいい」
伊尹は殷、霍光は前漢の名臣だが、二人は共に主君を廃した事で歴史に名を刻んでいる。
許攸は手綱を引いて馬を止め、曹操を睨みつけた。明らかに敵意を持った目である。
「そうか……。時間を取らせて悪かったな。今、話した事は全部、忘れてくれ。くれぐれも、口外だけはしないでくれ」
「当たり前だ。口外などする訳がない。それより……」
「それ以上言うな。こうなった以上、俺は最後まで引けぬのだ。言っておくが、私利私欲で動いているのではない。天下万民の行く末を思って決意したまでよ」
「わかってるさ。これ以上は何も言わんよ」
許攸は背を向けると馬に鞭打ち、曹操をその場に残して走り去っていった。曹操は許攸との間に不思議な縁を感じた。
新帝の擁立は失敗するであろうが、あの男は死なぬだろう。そしていつかまた自分の下に戻って来るような気がした。
それからまた数カ月後に京師から風に乗って届いた近況を耳にした。やはり冀州刺史の王芬の企ては全て失敗に終わったのだ。
失敗までの顛末はこうだ――
王芬は、黒山賊討伐の為に全国各地から兵を拠出し、さらに彼がその軍勢を指揮して討伐にあたる――
という内容の上奏が受理され、実現まであと一歩という所までは良かった。
だが、奇しくも巡倖予定の数日前のこと、皇帝の故郷がある北方の空が夕方でもないのに長時間も赤味を帯びるという気象現象が起きたというのだ。
天文や暦法を司る役職である太史令に、皇帝が直々にこの度の事象を尋ねた。
――陰謀の兆しが見える為、北方への巡幸は中止すべきでしょう―― との進言だった。
直ちに河間への巡幸は取り止めると共に、黒山賊の討伐も白紙に戻され、招集した軍勢は王芬の指揮下を離れた。そして勅使により、王芬とその一味は京師に上京せよという命令が下った。
ここにおいて王芬は、計画が発覚したと悟り、ついに自らの命を断った。
王芬の新帝擁立計画は頓挫し、計画に関わった者たちは捕縛されて処刑、許攸は辛くも逃げ延びて世間から身を隠し、世捨て人となった。




