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三国志創生伝 ~砂塵の彼方に~  作者: 菊屋新之助
第十二章  追奔逐北
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第一二七話  琥珀

 壁を乗り越えた塀の上から降りると、そこは大きな庭園の隅っこであった。塀の隅にある大きな木は、先ほど登ってきた木の枝に続いていた。


「実が成ると棘が出るから、秋にはこの木を伝って塀を越えれないんだ。ふふふ」


 その男の言葉で栗の木だとわかった。かなり大きな木だ。この木を伝って裏の塀から出入りするという事は、この男は度々この邸宅に出入りしているという事か。


 そんな無礼な行為は友人だってしない。それならこの男は孔融の親族の可能性が高い。見た目は小汚く使用人にすらみえない浮浪者のような出で立ちではあるが。


 親族であるのを暗示するかのように、この広い庭園をまるで我が家のようにすっと歩いていく。


「失礼ですが、貴方は孔先生のご親族なのですか……? でなけりゃこんな入り方は許されませんよね……」


「まだ気にしてんのか。君の推察通り、私は彼の親族だよ。心配するな、彼にちゃんと合わせてやるから」


 子義は怪訝そうに頷いた。なんにせよ、強引ながらも孔融の邸宅の敷地内に入れたのだ。この男にすべてをかけるしかない。


「その前に、一つ聞いていいか?」


 振り返って質問した男の表情が一変し、真剣に顔つきになっている。


「なんでしょう?」


「君は……会った事もない男に、母の安否を任せられると、本気で思っているのかね?」


 瞬間、時が止まったように感じた。確かに、彼の言う通りだ。会った事もない男に一方的に頼み事をするだなんて、虫のいい話だ。


「それは……。ただ、この尺牘(せきとく)(したた)めてくれた方へ、最後の義を果たす為にも、孔文挙どのに会わねばならないのです」


 子義の顔に迷いはなかった。


「そうか……、義か。……義を見てさぜるは勇なきなり――」


 そういうと、男は庭園の向こうにある屋敷へと歩を進めた。


 ――義を見てさぜるは勇なきなり――。


 ――正しい事だと知りながら見て見ぬ振りをするのは、臆病者である―― 


 それは孔子の残した言葉だった。


 子義は男のあとについて庭園内を歩いていく。庭園はよく手入れされているが、自然の風靡がきめ細やかに再現され、華美な印象はない。


 庭園を通り過ぎると邸宅が目の前に現れた。庭園と同じく余計な飾り気はなく、寧ろ簡素な佇まいが好印象を残す。


 邸宅の中に入ると部屋の一室に案内されて、ここに座れと指示された。


「ちょっとここで待っててくれ。すぐに呼んでくるから」


「はい……」


 本当に大丈夫なのだろうかと心配になるが、彼を信じて待つしかない。


 部屋の仲も華美な装飾などは施されていないが、どことなく風流な趣を感じさせる部屋である。


 どれくらいの時間が経っただろうか。長いようで短いようだが、しばらくすると彼が戻ってきた。


「待たせたな。それでは、君の名を教えてもらおうか」


 孔融を連れて戻って来るのかと思いきや、戻ってきたのは鮮やかな紋織を羽織り巾を被って現れたその男一人だった。


「え……? 孔文挙どのは、まだ来られないのでしょうか」


「私が孔文挙その人だ。騙すつもりはなかったのだが、言いそびれてな」


「な、何言ってるんですか、さっきまで……あ、貴方だったんですか!」


「尺牘を、見せてくれ。経緯を詳しく知りたい」


 子義は呆気にとられつつも、尺牘を孔融(文挙)に手渡した。


「尺牘の差出人は、張世平という方です。それにしても、人がわるいですな。貴方が文挙どのだったとは」


「ははは。まぁ、そう言うな。どれどれ、張世平とやらの言付けか。聞いたことのない名だが」


 世平からは古い付き合いだったと聞かされていたが、どうやら違うようだ。とにかく、孔融に会えたのだから余計な事はいわないでおこう。


「そういえば、君の(あざな)をまだ伺ってなかったな。教えてくれ」


「子義と言います」


 孔融は頷くと手紙を広げて文を黙読し始めた。


「ふむ。()()――か。久しぶりに聞く名だ……。しかし、彼の(あざな)元節(げんせつ)だった筈だが」


 ()()――? 聞いたことのない名だ。そういえば、()()(あざな)であり、名を聞いた事は今までなかった。


「なるほど。君は東莱郡の奏曹史で、上書を巡って青州と揉めた。君は機転を聞かせて不利な状況を覆した。が、その代償に州と遺恨を残し、身の危険を感じている。逃亡する以外の選択肢はないが、身体の不自由な母を連れて故郷を去る事はできない。掻い摘んで言うとこういう事だな」


 詳細は多少違うが大筋で内容は合っている。尺牘に書ける字数は多くはない。


「それにしても、君はここに来るまでの間、この尺牘を読まなかったのかい?」


「ええ。それは不義にあたる行為だと思ったので」


「ふむふむ、ますます正直な男だ。だが、一つ疑問がある。まずは()()だ。()()()()か知らんが、彼は東莱郡にいて君と数年過ごした。もし私の知る張倹なら……いわゆる元節どのならば、兗州は山陽(さんよう)高平(こうへい)県の出自で今もそこに住んでいる。張元節どのはかつて党人として追われる身であったが、黄巾の乱を切っ掛けに党錮の禁は解かれ、罪人から一転して三公からの招聘を受けた。つまりは大出世したという訳だ。だが、彼は招聘に応じることなく故郷で静かに余生を送っていると聞く」


「失礼ですが、恐らく張()()どのと、その張()()という方は別の人物だと思われますが」


「君が預かってきたという尺牘の主が、自分の事を張倹だと書いてあるのだぞ。まったく奇妙な話だ。もっとその張世平という人物の事を聞かせてくれ。君の母の事はそれから考えよう」


 子義は正直にありのまま自分の身に起ったことや張世平の事を話した。石真のこと、世平が黄巾賊であったこと、包み隠さず話した。


「張世平……、張元節。この二人は一体……」


 孔融がそう呟くと、そそくさと使用人らしき男が部屋に入ってきた。よく見ると早朝に出会った門番であった。


「ご主人様、こんな所におられたのですね。もう門の前には貴方との面会を希望する者たちで溢れ……あっ、アンタは今朝の」


「あ、ああ。どうも」


 子義はこの門番が余計な事を言わないか気掛かりだった。この門番に賄賂で面会を早めようとしていたからだ。


「ご主人様、この若造はね、私をモノで釣ろうとしたんですよ。ご主人様に会いたい一心でね。虎魄の玉帯でしたよ」


 案の定、門番は洗いざらいぶちまけた。しかし、孔融は気にする素振りを見せない。


「虎魄……か。よし、君はもう下がってくれ」


「え……? その玉帯を……」


「いいから、さがれ」


「は……。ではそうしますが、門前に集まってる面会者たちにはどう説明しますか?」


「では、門を開いて大広間に案内してやれ。そこで出来るだけ酒や食料を振る舞ってやるんだ。いいな」


「へぇ? わ、わかりましたっ」


 ようやく門番は出て行ったが、子義は賄賂を使った事をばらされて後ろめたい気持ちになり、面目なさげに下を向いていた。相手は聖人孔子の子孫で高名な人物だ。


「普段なら来客と一緒に、酒を飲んで宴会する方が性にあってるんだが、今日は朝から憂鬱な気分で、人に会う気になれなかったんだ。なぁ、よかったらその虎魄の玉帯を見せてくれないか」


「はい……」


 子義は外側に見えないように隠していた琥珀の玉帯を孔融に見せた。賄賂の事はどうやら気にしてはいないようだ。


「これは見たことがある。元節どのが持っていたモノと同じだ。この尺牘と君の話、そして、この虎魄の玉帯。やはり張元節と張世平は同一人物だ。張倹どので間違いない――」


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