第一二六話 孔林
青州は魯国の曲阜県といえば、孔子生誕の地であり儒教の聖地である。
先帝の桓帝が孔子を祀る祠廟を造営し、その近くには直系の子孫が住む孔府という邸宅がある。孔融の屋敷は孔廟より少し側にあり、傍系であるが立派な邸宅を構えていた。
門の前には大きな箱が置いてあり、箱の上面には木簡を刺せるように細かい格子が張られてある。その木簡を来た順番に刺していき面会の予約を取るのだ。
この細長い木簡には自身の姓名や出身地が書かれてあり、この木簡を則ち名刺と呼び、現代の名刺の語源ともなっている。
子義は前日から孔融の屋敷の付近で布に包まって野宿で一晩を過ごした。早朝から面会を申し込む為だ。そして名刺を門前の箱に一番乗りで入れた。
「なんだ、こんな朝っぱらから。まだ面会の時間には早過ぎるぞ」
偶然にも使用人が門から出てきたので、子義は名刺を見せて自分の姓名と官職と出身地を知らせた。
「東莱郡からの奏曹史ごときが、ご主人様に会いたいだと? 身分を弁えろ」
予想通り、名士の孔融にはすんなりと会わせてもらず、門前払いを食らった。
「もちろん自分の身分は弁えているし、無理な申し出である事も分かっている。だがこれは孔先生以外の者に見せてはならない極秘の書簡なのだ。しかも急を要する。……なんとかできないか?」
「ご主人様に会いたいという方は日に何人もいるんだ。お前だけを特別扱いにはできぬぞ」
子義は身を乗り出して、相手の顔の側面にまで近付き耳打ちをした。
「そんなわかっている。だから、これで何とか出来ないだろうか」
服の下から見えないように付けていた虎魄(琥珀)を装飾に施した帯を取り外して、子義は相手の手に握らせた。この玉帯こそ世平が尺牘(手紙)とともに忍ばせた秘策である。
「お、おい。こりゃぁ……とんでもねぇ高価そうな玉帯だな」
「ほんの少しの時間だけでも、面会できる段取りをしてくれたらそれでいいんだ。そしたらこれをくれてやる」
「じゃ、先にソレを……」
門番の男は子義の手からその貴重な玉帯を取ろうとしたが、子義は相手の腕を強く掴んで捻り上げた。
「まずは約束を果たしてからだっ。わかってるだろう」
「痛ててっ、くそっ。本当にそれを渡すんだろうな? ちょっとここで待ってろ。ご主人様の様子を伺ってくる」
門番は門を閉ざして子義を外に置き去りにした。いくら待っても彼は出て来ない。そのうちに孔融との面会を希望する者達がぞろぞろと集まってきた。
せっかく前夜から野宿してまで早朝から待っていたのに、これでは門前払いと同じではないか。何か別の手を考えなければ。
焦りと苛立ちを落ち着かせる為に、子義は曲阜の城を出て北にある孔林へと出かけていった。
「くそっ。あの門番の野郎っ。玉帯を渡さなくて正解だったぜ。それにしてもどうやったら孔先生に会う事が出来るんだ。順番通り待っていれば会えるのか……? だが、時間まではまだ大分あるな……」
孔林とは歴代の孔一族の墓が並ぶ林である。さらに奥へ進むと、泗水河という風靡な河川の岸に辿り着く。そこに始祖である孔子の陵墓がある。
奏曹史として一度この付近の役所を訪れた事はある。仕事だったので観光はしていないが、少しは土地勘がある。
孔子の陵墓まで行って礼拝すれば、何か知恵が浮かぶかもしれない。子義は柄にもなくそう思った。
林にはチラホラと人影が見られ、座して書簡などを読む者もいた。儒学に勤しむ者であろう。自分もかつては地方官僚を目指していたので懐かしく見えた。
そんな考え事をしながら歩いていると、人気のない林の奥まで来ていた。向こうから川のせせらぎがうっすらと聞こえてくる。
ふと気付いたのだが、木陰で男が横たわっているのが見えた。子義は気になったので近づいて男の様子を確認した。
見た目は壮年で背の高い男だ。腹を上下に波打ちながら、鼾を豪快に鳴り響かせている。朝から酔って潰れているらしい。
「おじさん、大丈夫かい? こんな所で昼間っから寝ちまうなんて」
「んごっ?」
あれだけ豪快な鼾をかいていたのに、話しかけるとスッと起き上がった。うたた寝をしていただけのようだ。
「ちゃんと生きてたのか。よかった、よかった」
子義は笑って首を何回も振ったあと、踵を返して去ろうとした。
「ちょっ、待てっ。いい夢見てたのに邪魔しやがって。何が、よかった良かったぁ、だよ」
振り返って男の顔を見たが、酔っ払っているようには見えなかった。
子義はムッとして言い返そうとしたが、彼の脇に書簡が置かれてあるのに気付いた。読書の途中で白昼夢に襲われたのであろう。
「いや、申し訳ない。貴方の邪魔をするつもりはなかった。ただ、もしもの事があったらと思って声をかけたのです。すみません」
子義は素直に謝った。苛立ちを紛らわせる為に孔林までワザワザ足を運んだのだ。ここで騒ぎを起こしては、後々の災いになってはいけない。
「そうか。お前、なかなか素直な男だな。親切心あってのことで、悪気はなかったという事か。こちらこそいきなり怒鳴って悪かったよ、許してくれ」
「わかって頂けて良かったです。では……」
子義は一礼して去ろうとすると、その男が引き留めようとする。
「おいおい、何か急ぎの用事でもあるのか? ちょっと酒でも一緒に引っ掛けていかんか」
酔っているように見えなかったが、この男、やはり酒を飲んでいたのだ。
「いや、用事があるので、酒は……」
「用事? こんな林の奥にまで来るなんて、暇だからじゃないのか」
「それが、途方に暮れて気付いたらここまで来てたんですよ。ある著明な方にどうしてもお会いしたくて」
「ほう、誰だいそりゃぁ?」
「誰もが会いたがっている高名な方です。貴方も曲阜の方ならご存知でしょう。孔文挙どのですよ。どうしても彼に会って話を聞いて頂けなければならないのです」
「そうか。いつも門前に行列が出来ているよ、まったく。で、どういう理由でアイツに会いたいんだい?」
「アイツって……。まさか、お知り合いなのですか? ちょうど良かった。この尺牘をとある方から預かってます。書いてある内容は私の母の事です」
子義は木簡の尺牘を取り出して渡すと、男はさっと内容を読んだ。
「む……。これは誰から預かった?」
その男の顔つきが急に変わった。それまでの雰囲気とはまるで違う。
「それは……。孔先生に直接会って事情を話したいのです」
「ふむ。何やら深い事情がありそうだな。なんだったら、私が奴に合わせてやろうか?」
「え……? やはり、孔文挙どのとお知り合いなのですね」
「ああ。古い付き合いだよ。よし、今から奴の家に行こうじゃないか」
「ほ、本当ですか? やった、ありがとうございます。それであの、貴方のお名前を聞かせてくれませんか?」
「ん? ああ、また後でな。それより、酒、ちょっとやらんか?」
「そんな場合じゃ……。また後で付き合いますから……」
ひょんな事から孔融に会う切っ掛けを得た子義。彼をよく知る人物が合わせてくれるというなら話が早い。
二人は県城に戻り孔融の邸宅へと近づいて行った。すると男は正門とは真逆の裏側の塀に向かった。
「ここは真裏じゃないですか。ここに裏門でもあるんですか?」
「裏門などない。ほら、あの木の太い枝を掴んで登るんだ。よいっしょ……」
塀を越えて木の枝が伸びているのだが、その木を伝って男は塀を乗り越えた。子義は辺りをキョロキョロと見回すと、同じように木の枝を掴んで身を乗り出して塀の上に登った。
「これじゃ泥棒みたいじゃないですか。こんな入り方して本当に大丈夫なんですか?」
「来客が多い時は裏から入ることも多々ある。まぁ、気にするな」
男は気にせず乗り越えた塀の内側から、子義の手を掴んで塀の上から降ろしてやった。




