第一二五話 尺牘
子義もフラフラしながら立ち上がり世平がいる檻車へと向かった。賊たちが異様な眼差しを向ける中でゆっくりと歩いた。
檻車の前に辿り着くと、子義は世平を前にして座り込んだ。世平は背を向けて正座している。
「世平さん。何故こんな檻の中で座ってるのですか」
奇妙だが、檻車の中に書机が置かれていてる。世平は檻の中で木簡に何か書を書いているようだ。世平は筆を止めてその木簡を置いた。
「子義か。石真より全てを聞いたのだな。何を言ったかは知らぬが、彼の言うとおりの過去を持った男だ、この私は」
「全ては……京師で、蘇士然より聞きました」
「士然? 士然が……生きていたのか。なぜ彼が京師にいるのだ?」
「やはり、貴方は何も知らなかったのですね。信じられない事に、彼は州の奏曹史だったのです。張常侍という大物宦官に仕えていたようで、石真が黄巾賊だった事を密告する上章を持っていました。その上章を巡って彼と死闘まで演じました。今の私は何を信じてよいのか、それすらもわかりません」
世平は無言のまま天を仰いだ。
「まさか京師で張譲の下に仕えておったとは、とても信じられん。太平道で十年もの間……一緒に過ごしたのだが、一体どこで張譲との繋がりを持ったのだろうか」
「貴方たちの過去はよく知りませんが、多分アイツは最初から世平さんを裏切ってたんですよ。でなけりゃ、あんな大物との繋がりなんて有り得ないでしょう。ずっと前から張譲の間諜をやってたに違いありませんよ。アンタや石真が俺を騙していたようにね」
ようやく世平は振り返って子義に目線を合わせた。お互いに悲しげな目をしている。
「すまなかったな……」
「すまなかった? それだけですか、笑わせる。あの物資は県の民から巻き上げたモノなんだろう。やっぱり賊のやる事だな、略奪! 殺し!」
「違う。あれは、高官たちが人民から巻き上げた血税だ。貧しい者たちにも少し分けてやると言っていた。高官の屋敷の者以外は誰も殺してはいない筈だ」
「そんなのは言い訳だ。賊である事に変わりない。この城を乗っ取って民を恐怖に陥れているじゃないか」
「話を聞け。石真たちは住民には手をだしてはいない」
子義は立ち上がって声を震わせた。
「いいかっ。光武帝の忠臣、李将軍はこの黄県の出自だ。他の諸将が戦勝の代わりに略奪を繰り返したのに対し、李将軍のみが真義を通して略奪を行わなかった。李将軍は今でも黄県の誇りだ!」
「落ち着け。李忠将軍の事はよく知っているよ。雲台二十八将(光武帝に尽くした二十八人の功臣)の一人だ。皆が彼を深く尊敬しているのはよくわかる。だから賊の我々は黄県にはいられない。民衆の反感を買っているのは重々承知している。君が正義感溢れる有望な若者だということも私はよくわかっている」
「なんだよ、今さら。俺だってもうここにはいられない。だが、州から追われる身だからと言ってアンタたちと行動を共にする気もない」
「そう言うと思っていた。それでは、誰がお前の母の面倒を見るのだ?」
「だから、アンタに頼みにきた。頼めるのはアンタだけだ。黄県に残って母の面倒を見てくれないか?」
「私は彼らと共に行く。ここには残れない。だが、お前の母の身を案じている」
「案じているだって? 結局は見捨てて賊どもと逃げるんだな。母はアンタの恩人だろっ」
「まぁ、話を聞け、子義よ。さっきもお前の母を案じていると言っただろう。私の古い友人が魯国に住んでいる。変わり者だが才気があり真義を持っている男だ。彼にこの尺牘を渡してくれればきっと力になってくれる。お前が戻って来る事を見越してこの尺牘を認めておいた」
世平は先ほど書き終えたばかりの尺牘を、麻袋に入れて子義に手渡した。
尺牘とは、一尺(約二十三センチ)ほどの木簡を指す。その木簡に書を認めた手紙の事だ。
手渡された袋には尺牘だけでない重みを感じる。
「なんですか、この袋は」
「いいから早くそれをしまうんだ」
世平の目が何か言いたそうにしている。子義は尺牘を入れた袋をすぐに懐にしまい込んだ。
「魯国の友人って、どんな人なんですか?」
「名族中の名族、孔子の子孫だ。名は融で、字は文挙。魯国の名士だから会うのは容易ではないかもしれぬ。だが、どうにかしてその手紙を渡すんだ」
「そんな……。どうやったら、俺みたいな者が孔子の子孫に手紙を渡せるというんですか。しかも渡せたからと言って母の面倒を見てもらえるかなんてわかりゃしない。だいたい、世平さんはそんな大物が古い友人だなんて、そんな話を信じろと?」
「話せば長くなる古い話だ。今はそんな昔話をしている場合じゃない。奏曹史として働いていたお前なら、孔融に手紙を渡す方法をなんとか見いだせるだろう。今日のうちに発つんだ。早い方がいい」
「今日ですか……こんな状況で……。額を自分でかち割っちまったし、まだ母にも会っていない」
「見た所、血は止まっているようだし、そんな大怪我ではないだろう。それに、母と会えば決心が鈍ってしまうぞ。州に追われている身で悠長な事は言ってられん筈だ。どうやら、石真はお前に対して少しは負い目を感じているようだから、今なら余計な真似はしないだろう」
「くっ……、わかりました。それで、貴方たちはどこへ行こうっていうんですか?」
「さぁな。私は何も聞いていない。この檻車の赴くままだ」
「そうですか……。礼は言いませんよ。もう二度と会うこともないでしょうが、ただ……貴方の旅の安全を祈ってます」
「念の為、もう少し休んで、夜中に出発したまえ。その方が良い。無事を祈っておるぞ」
そういうと世平は目を閉じて瞑想した。その姿は子義の旅の安全を祈っているようであった。
子義は静かに礼をした。礼は言わないと言ったが、身体は無意識に動いていた。世平は目を瞑っていたが、子義の無言の礼を感じ取ったであろう。
ゆっくりと振り向いた子義は、そのまま遠くの木陰まで行って、そこで一寝入りし始めた。
その日、真夜中にむっくりと起き上がり、皆が寝静まったのを確認した。世平のいる檻車には目を向けず、夜陰に乗じて魯国を目指した。
子義がひっそりと立ち去るのを石真は気付いていたが、あえて見ぬふりをして横になった。
翌朝には石真たちは出発する。彼らがどこを目指すのかわからないが、自分の行く道は指し示された。
とにかくやるべき事をやる。そうしなければ母の安全は保証されない。
奏曹史のフリをして尺牘を渡すのは容易いかもしれない。とはいえ、本当にそれで本人に直接届くのか疑問だ。
魯国は孔子を輩出した名門の国であり儒教の聖地。孔融は傍系(分家)でありながら直系の一族を差し置き、取り分け注目されている貴公子であり、幼き頃より神童として数々の逸話を持っている。
そんな彼に会うために多くの人々が彼の邸宅を訪れるのだという。仮に尺牘を本人に手渡してもそれを読んでももらえるのか。さらに自分の母の面倒を見てもらえるかなど、夢のまた夢のようでもある。
とはいえ、残された道は、孔融に直接会って尺牘を手渡し懇願するしかない。年老いた母の安全さえ保証されれば、例えお尋ね者の身でも、自分の身一つなんとでもなる。
自分はまだ奏曹史なのだからと言い聞かせながら、子義は予州の東端である魯国へ一途向かっていった。
魯国なら四、五日もあればなんとか辿り着けるだろう。




