第一二四話 木陰
子義が黄県に辿り着いたのはその日の朝。霧が濃く立ち込める季節外れの薄ら寒い朝だ。
必死の思いでようやく故郷に辿り着いたにもかかわらず、黄県に入ってすぐに目にしたのは、ただならぬ事態であった。
黄県の正門の前に数千人もの兵が集まっている。石真を捕らえる為に州の刺史がこんな大勢の軍隊を率いているのだろうか。黄県にはこれほどの軍勢は常備されてはいない。
だが、よく見ると兵たちの衣服のほとんどが黄色ではないか。頭部に黄色い布こそ巻いていないが、明らかに黄巾賊の残党である。
「なぜ、こんな事に。まさか、石真が呼び寄せたのか。やはり、蘇双の言うとおりだった。そうとしか考えられない」
子義は県城の城壁に近づき、茂みの陰に隠れて様子を見ている。
思えば、三年前にも似たような光景を見た。そう、黄巾賊に乗っ取られた県城を、石真の部曲が乗り込んでいって取り返したあの日。
彼が黄巾賊の一味だなんてやはり信じられない。どうしても自分の目で確かめなければ蘇双の話を鵜呑みに出来ない。
確かめるには県城内に入り、石真に直接会って話を聞くしかない。しかし、県城の正門前に近づくのは危険だ。非常に殺気立っていて見つかれば何があるか判らない。
日が登るにつれて靄は晴れて行き、黄巾賊の残党と思しき部曲と、県城の正規軍の小競り合いが始まった。殺気立っていたのはこの為か。ますます三年前の記憶を思い起こすような光景である。
小競り合いは昼すぎまで続いた。とはいえ、城壁の上からと地上からの弓の応戦が断続的に続いただけだ。
その間に好奇心旺盛な見物人もちらほら見られた。付近の住人か……それとも通りすがりの者達か。
子義も見物人の一人となって小競り合いを見入っていた。昼を過ぎると城壁の上にいた兵たちは姿を消していたが、射殺されたか撤退したのかはわからない。
そしてついに正門が開いた。黄巾賊たちは慌ただしく続々と中に入っていく。だが、入っていたのは約半数で、残りは城外に駐屯したままだ。やはり近づくのは危険を伴う。
それでも子義は近づいた。石真に真相を確かめる意図もあるが、城内には自分の母もいる。母の安否も確かめなければならない。
正門の近くの大きな木が見える。あの木陰で石真に初めて出会った。賊は正門の付近にいるから、今ならあの木の下まで近づける。
意を決して飛び出した子義は、大きな木を目指して一挙に走った。駆け足だが軽やかに走り抜け、誰にも気づかれず辿り着いた。
と思いきや、木の根っ子に躓いて豪快に転げ、太い木の幹に額を強打した。
「ぐぅああ!」
額を押さえて蹲り悶絶する子義。悲鳴を聞きつけて莉旋がその木の近くまで寄ってきた。
「おい、大丈夫か? 何をやっているんだ、こんな所で」
返事が出来ない。痛みと目眩で子義はまだ動けないでいる。額から眉毛を伝って液体が流れてくるのを感じる。
「動けないのか。おーい、こっちで変な奴が頭から血ぃ流して倒れてるんだ。ちょっと運ぶの手伝ってくれ」
怪我をして動けない自分を介抱してくれた。凶悪な賊だと思っていたが予想外に親切だった。礼の一つでも言いたい所だが、意識が朦朧として動けない。
相手の為すがまま介抱を受けた。額の流血を止める為に黄色い布を巻かれ、木の幹の下に座らされた。
その後、いつの間にか眠っていた。ろくに眠らずに帰路を急いだので睡魔に耐えれなかったのだ。
目を覚ますと目の前に体格の良い一人の男が立っている。見慣れた顔だが、久しぶりに合った気がする。見事な髭に太い眉毛、そしてこの眼光の鋭さ。この男は……
「子義っ、大丈夫か? よく戻ったな。京師はどうだった?」
「劉、劉県尉。いや、石真……」
「何もいうな。ご苦労だったな。もういいんだ、お前の役目は終わった」
石真の後ろには、彼の部下であろう黄巾賊たちがズラリと並んでいる。石真が黄巾賊の残党である事はもう疑いようがない。
「私の役目……、役目ってなんだ? 賊だったアンタの過去がバレないように監視する役目か。ふざけやがって」
「それが、どうした。俺のおかげでお前は念願の奏曹史になれたじゃねぇか」
「フン、よくもそんな事が言えたモンだな。俺を騙しておいて! アンタの正体はただの盗賊じゃねぇかっ」
子義が怒りを露わにすると、石真の顔つきがみるみる変わっていった。悪びれる様子は全くない。
「京師で俺の正体を知ったのだな。で、黒幕は誰だったんだ?」
「黒幕? そうか、ついでに教えといてやるっ。あの上章を書いたのは士然だ。蘇士然だよっ。京師でアイツに殺されかけたんだぞ!」
「そうか。やはり、蘇双か。奴がなんで裏切ったか知らんが、俺の予想通りだったな」
「アンタら三人とも黄巾賊だったんだろ。俺を馬鹿にしやがって。お前ら三人とも許せねぇ」
「仕方ない。だが、よぉく考えるんだ。俺のおかげでお前は宮仕えできたんだ。それで本望じゃないか。なぁ、くだらない宮仕えで一生を終えるより、俺についてくる気はないか? どの道、お前も追われる身だ」
「冗談はよせ。黄巾賊のアンタにノコノコついて行くと思ったのかよっ。おかげで州からも郡からも追われる身になった。しかもこんな黄色い布切れを頭に巻かれてよぉ。これじゃ、まるでお前らの仲間じゃねぇか。だがなぁ、絶対に従わねぇ。死んでも賊に身を費やす気はない。だから、ここで俺を殺せ。でなけりゃ、俺がアンタを殺す!」
「威勢だけはイイじゃないか、子義。お前といい、世平といい、そんなに死にたいんなら止めやしねぇぜ。その前に言っておいてやるが、お前が死んだら母は誰が面倒を見るんだ?」
「母さん。そうだ、母さんは? それに、世平さんが死のうとしてるのか?」
「お前の母がどうしているかは知らん。で、世平はお前のように下らん正義感の為に死のうとしている。だが、お前たち二人は俺についてくる以外に生きる道は無い。俺は好意でお前たちの面倒をみてやろうと言ってるのだ。だから、無理強いはせんぞ。どうするかはお前に選ばせてやる」
「くそ、最後に母さんに会いたい。できれば世平さんにも会って真相を確かめたい」
三人とも黄巾賊だったという事実を知ってもまだ、子義はあの老人を…、世平を、恨む気持ちにはなれなかった。
「ではお前の好きにするがいい。言っておくが、お前が母親に会いに行けばかえって迷惑をかける事になるぞ。それに、お前が帰る場所はもう黄県にはない。それどころか青州にすら住めないだろう。だが、世平には合わせてやれるぞ。ほら、あの檻車の中でゆっくり話して来い」
石真が指さした方向に眼を凝らして見てみると、遠くにある檻車の中で世平が座しているのが見えた。
「世平さんになんて事を!」
「ほう。この距離から世平が見えたか。なかなか良い眼をしてるな。だが、鍵は掛けてはいないから、檻から出たいならいつでも出られる。アイツは自分から好き好んで檻車の中に入ってやがるんだ。ゆっくり話がしたいんだったら一緒に檻にでも入ってたらどうだ?」
「ば、馬鹿にしやがって」
「虚勢を張るのもいいが、少しは現実を考えてみろ。お前は俺がいなけりゃ何も出来ない無力な男だ。そんなお前を養ってやろうって言ってやってんだ」
子義は黙り込んだ。確かに今の自分は虚勢を張るだけの無力な男だ。意地を通して死ぬか、見栄を捨てて石真に従い賊に落ちぶれるか。
「わかった……。世平さんと話をさせて欲しい」
項垂れた子義を見て、観念したのだと石真は思った。
「好きにしろ。お前を束縛するつもりはない」
石真はそう言い残すと、踵を返して賊の軍勢の中へと戻っていった。




