第一二一話 禁秘
群がっていた群衆は蜘蛛の子を散らすように去っていき、蘇双と子義だけがその場に取り残されていた。
「士然殿。さっきの人は張常侍ですよね? 何であんな大物の方とお知り合いなんですか?」
「さっきも言ったがお前に話してもわからんだろう。だが、さっきお前に言いかけた事だけは教えといてやる」
「言いかけた事……?」
「そうだ。張……世平も、張……石真と同じく、元は黄巾賊だったって事だ」
「う、嘘だ!」
「嘘じゃない。俺は十年もの間、張世平の監視役として付き添い、弟子のふりをしていたんだ」
「そんな……」
「あの日の事を覚えているか。俺と世平はお前の家に厄介になっただろう? 世平が高熱を出して、どうしようもなくなった俺が、助けを求めたのがお前の家だった。お前の母は裸同然だった俺たちを手厚く饗してくれた。感謝の念を忘れた事は今の一度もない。だが、俺には命の恩人を売ってでも成し遂げねばならぬ事がある」
頑なに事実を受け入れるのを拒否していた子義も、少しづつ蘇双の言うことを理解し始めたようだ。
「それと、何度も言うが、張石真は太平道の信徒で、方だった男だ。黄巾の大乱が起こった一昨年に、黄県が一時的に黄巾賊の手に落ちたのは覚えているな。あの時、どさくさに紛れて仲間の黄巾賊を裏切り、自分が県尉に成り代わったのだ。信じられんだろうが本当の話だ。なぜ俺がこんな事を知ってるのかと言えば、それは俺も彼と同じ太平道の信徒だったからだ。そして、張世平もまた同じ信徒だった」
「信じなければならないのですか……? その話……」
子義は地に膝を付いて観念したかのように項垂れた。
「信じるも何も、俺の言った事がすべて事実だ。何故、石真がお前を郡の奏曹史になれるよう斡旋したと思う? お前に上章の監視をさせる為だろうが。石真の野郎は、お前を利用して自分の過去がバレないように、怪しい書類があったらもみ消そうとしてたんだろう。違うか?」
蘇双のいうことは図星だった。石真は何か後ろめたい何かがあったからこそ、子義に間諜紛いの仕事をさせていたのだ。
しかし、本来だったら成れなかった奏曹史に就かせてもらった恩が、石真に対する忠誠心へと変わっていった事を自分自身でわかっていたのかも知れない。
今思えば偽りの忠誠心の為にこんな事をしてきたのだろうかと、子義の心に疑問が浮かび始めた。遥々と京師までやって来た挙句、知らされたこの現実。
子義は言い知れない虚しさを感じた。
「わかっただろう。お前の命を掛ける価値があったのか? この使命に。あの石真という男に」
「でも、劉県尉は、いや張石真か……。ともかく、石真と世平どのは、あなたをずっと心配しておられた」
ほんの少しだが、出会った頃の真っ直ぐな瞳をした蘇双の顔が見えた気がした。だがそんな感傷を吹き飛ばすように蘇双はすぐに凶悪な顔を覗かせた。
「ついでにしっかり教えといてやる。あのジジイもお前を騙していたんだ。張世平は、お前を騙していたんだよ。あの二人はグルになってお前を騙していたんだっ、この馬鹿が!」
激昂の仕方が尋常ではない。また刀を抜いて襲いかかってきそうな勢いだ。
ただ、石真や世平の二人に対し、疑いの念が沸々と湧き上がるのを感じた。それと同時に、ずっと一緒に二人といた蘇双が、州の奏曹史となってここにいるという疑問を問い質したかった。
何故か石真や世平を裏切ったあげく憎悪までしている。
「世平どのは石真に疑われて獄中にいるのですよ? 私が戻らねば殺されてしまう」
子義がそう言うと、蘇双は関を切ったかのように急に笑い始めた。
「ふ、ははは。何で俺があの二人を裏切って張常侍の下にいるのか……と聞きたそうな顔をしているな。さっきも言ったが、俺はずっと前から張常侍に仕えていたのさ。あの二人はいつか反旗を翻してまた朝廷に楯突くだろうから、そうならないように俺が間諜に入って監視していたのさ」
「そ、そんな……。じゃあやっぱり、私は石真にただ利用されていただけなんですね」
「どう考えたって、それ以外の答えはないだろう。わかったら、さっさと故郷に帰るんだな。まぁ、故郷に帰ってもすぐに州から追われる身になるだろうがな。はっはっは」
蘇双は高笑いをしながら公車門の中に入って行った。
子義は人が少なくなった公車門の前で立ち尽くした。何をしたらいいのか、全く検討がつかなかった。
ともかく、故郷に戻らねばならぬ。戻って確かめねばならぬ。確かめねば自分の気が済まぬ。石真は中原を席巻した大反乱に加担した賊だったのか。そして、張世平はその賊どもの仲間だったのか。
蘇双の言っていた事が全て本当なのか、一刻も早く返って確かたい。とはいえ、故郷までの長い道のり、どうやって帰ろうものか。
雒陽までの道中でかなり使ったが、まだ辛うじて銭が残っている。子義は急いで秏門を通りぬけると、故郷の黄県に向かって足早に歩き始めた。
その日の夜、蘇双は張譲の邸宅の一部屋で蝋燭に火を灯していた。
「張常侍。子義という小童を故郷へ帰しました」
「しかし、張世平が獄に投じられているとはね。子義という小僧を帰さねば、世平が斬られるんだろ? まぁ、別にどちらでもいいが、あの爺さんを死なせるのは惜しいな。まだ使い道があるやも知れぬ」
「はい」
「で、石真は反旗を翻すと思うかね?」
「はい。上章は偽造して奏上したので、カタがついてます。そして反旗を翻した石真の討伐許可もとってあります。青州刺史どうするかはわかりませぬが、恐らくは部曲を率いて黄県に向かうでしょう」
「よかろう。上手く行けばまた反乱を起こせるし、失敗しても雑魚が死ぬだけだ。少しは面白くなれば良いがね……ククク。しかし、半年前にお前が現れたかと思ったら、こんな面白い話を持ってくるとはなぁ」
「ええ、この十年間、貴方との約束を忘れた事はありません。京師に戻れる機会をずっと伺っていたのです」
「覚えていてくれて嬉しいよ。私も」
「張常時様、話は変わりますが、一つお伺いしても良いですか?」
「どうせくだらぬ質問だろう。人臣の位を極め、皇帝陛下の次に崇められる私が何故、この漢の王室を揺るがす反乱を招こうとしているのか? 貴様の様な下郎に話しても判るまい」
「そ、それでは……私の妻は……、妻は、元気にしているのでしょうか?」
張譲は少し考えてから蘇双に話した。彼の妻の事を思い出すのに要した時間だ。
「なるほど、それが聞きたいが故にくだらん話を続けようとしたのか。まぁ、少しだけ話してやろう。後宮はこの世で一番安全な場所だ。皇帝以外の男はいないし、飢餓や疫病などとは無縁の世界だ。何をそんなに心配しているのだ」
蘇双が聞きたいのは彼女が元気かどうかなのだが、張譲に尋ねた所で大した情報はないだろう。
「さぁ、お前も黄県に戻れ。一応、奏曹史なのだから、形だけでも報告という体を成しておけ」
「もう、青州へは戻るつもりはありません。他の者を使いにやっていただけませんか。その代わりに私を貴方のもとで働かせて下さい、少しは役に立つかと思います。宜しくお願い致します」
「ふむ。京師に残りたいのだな。だが、お前に何が出来る。どう役に立てるというのだ」
「間諜として働かせて下さい」
「なるほど。少しは役に立つかもしれんな。よかろう……」
張譲は蝋燭に近づき、フゥ~と深くゆっくり息を吹きかけると、辺り一面は深い闇に覆れていった。




