第一一五話 辞退
青州済南国を出た曹操は、東郡の郡治(治所)である白馬県に向かう途中、東阿県に立ち寄った。
東阿県では薛房に面会するつもりだった。劉繇に太学時代からの友人に会って欲しいと頼まれていた。
薛房は黄巾の乱の際に、少ない軍勢で黄巾賊を撃退し、東阿県を守った忠烈の士だと聞いている。
しかし残念ながら、曹操が到着する数日前に、薛房が逝去していた事を知った。
出迎えてくれたのは、薛房の親友である程立という男だった。程立も薛房と共に黄巾賊に立ち向かった壮士だと聞いている。
背が高く見事な頬髭を蓄えた威厳のある男だった。白髪が多く初老にも見えるが、身体つきは頑健で若々しさすら感じた。
曹操と程立は会うと意気投合し、程立の質素な邸宅で酒を酌み交わす事となった。
「黄巾賊を相手に少数で立ち向かった話は伺っております。薛氏が急逝されたのは残念ですが、貴方に出会えた事は私にとって一つの財産になりました」
「そう言って頂けるとは光栄ですな。曹太守こそ皇甫将軍と共に潁川で活躍した英雄です。今日は、貴方との出会いを祝うと共に、逝ってしまった友に捧げる酒でもあります」
二人とも酒が強く、どんどん酒が進んでいく。時折だが、程立は奥歯に何か物が詰まったかのような話し方をした。
「それにしても、私の事で何か不穏な話でも耳にしましたかな? 仲徳殿」
話の途中で曹操は突然、程立に対して確信を突いた問いを投げかけた。
「ふむ。感付かれましたか。さすが酒に酔っても飲まれる事はないようですな。これはあくまで根も葉もない噂話、いや、恐らくは真実――」
「はっきり申して下さい。私は一向に構わない」
「よろしい。どうやら、貴方は強大な権力を持つ何者かに命を狙われているらしい。白馬県に行くのは止した方がいいでしょう」
「心当たりはあります。私の命を狙っているのは宦官に縁のある連中でしょう。しかし何故、私が命を狙われている事をご存知なので?」
曹操は酒をぐいと飲み干し、程立の目を見つめた。程立の目に曇りはない。そして程立は言った。
「私の境遇も似たようなものです。黄巾賊が鎮圧されて平和は戻ったが、派遣されてくる太守や県令は宦者の息がかかった者ばかり。これでは何のために戦ったのか判らない。抵抗もしましたが虚しさが募るばかり。だから官吏を辞して在野に埋もれようかと」
「まさか……。貴方のような逸材が……」
曹操は酒杯を置いて閉口した。程立は構わず話を続ける。
「まぁ、聞いてください。かつて私は同僚に裏切られ一族を殺された。それ以来、常に目や耳を張り巡らせ、東阿の情勢を諜っております。失礼ではありますが、貴方の事も調べさせて頂きました。その折に、貴方がその生命を狙われている事を知ったのです」
「そうでしたか。だが私は済南の劉県尉と約束を交わした。相手がどんなに強大な相手だろうと奥せずに自分の道を往くのだと」
程立も酒を置いて急に立ち上がり、声を荒らげて言った。
「大義や名分などは後から付いて来るものです。貴方はまだ若い。いつか必ず時節は貴方に向いてやってきます。つまらぬ意地の為に命を粗末にするなどもっての他だ」
曹操も息巻いて立ち上がり、程立に負けじと言い返した。
「つまらぬ意地だと? アンタに何が判る!」
程立は暫しの間、黙りこくって曹操の顔を上から睨みつけた。そして静かに頭を垂れながら話を始めた。
「無礼を承知で言わせてもらいましたが、お許しください。無礼ついでに……、変な話だと思うかもしれませんが、私が若い頃、同じ夢を何度か見る事がありました」
「夢? 一体なんの話をしている」
「まぁ、聞いて下さい。その夢とは、泰山に登って両手で日輪を掲げるという夢です。これが何を意味するのかわかりません。ただ、貴方の顔を見た時、若い頃によく見たこの夢を思い出したのです。貴方とは何か深い縁があるのかもしれません。だからこそ命を無駄にして欲しくない。体調を壊したとでも理由付けして太守を辞職し、故郷に戻って次なる時節を窺うべきです。このまま白馬に赴任して太守を引き受け受ければ、貴方だけでなく一族郎党にまで被害が及ぶやもしれませぬぞ」
曹操は素っ頓狂な夢の話を聞いて少々戸惑ったが、程立の気持ちは理解できた。そして、床に座り直すと続いて程立も座り直した。
「そうですか。そこまで私の事を思って頂けるとは有難い。明日までに気持ちを整理して、進退をどうするか決めます」
「曹太守。もうここでハッキリと決めて下さい。私は貴方が故郷に帰るというまでは、体を張ってでも貴方をこの部屋から出さないつもりです」
程立は両手を広げて何かを遮る素振りを見せた。曹操は大笑いして程立に言葉を返した。
「ははは。実に愉快だ。そこまで言われたら故郷に帰るしかないな。して、貴方も在野に戻るのか?」
「考え直して頂き有難う御座います。私も時節が巡ってくる時まで身を隠すつもりです。ただし、故郷から離れる事はできません。先祖伝来の墓を守らねばならない。話を戻しますが、時代は必ずや貴方を必要とする。その時こそ貴方に仕えさせて下さい。この程立、身命を賭して貴方の手足となる所存でございます」
「仲徳殿、貴方に出会えて良かった。私は必ず再び東郡の太守として帰ってくる。貴方という人物を迎える為に」
二人は固い握手を交わした後でまた酒を飲み干した。
結局、曹操は程立の進言を受け入れて東郡太守の座を辞し、故郷の沛国譙県へと帰る事に決めた。曹操と程立はいつか再び会おうと互いに誓い合った。
京師では、東郡太守を辞した曹操について、張譲はこれ見よがしと追求した。
「勝手に太守を辞して故郷に帰るなど、こんな身勝手な振る舞いが許される訳がない。早速、曹操を捕縛して吊るし上げるべきです!」
太平道との繋がりを疑われ、かつてほどの隆盛は失した張譲だが、それでも宦官としての権勢はまだ健在だ。
だが、張譲の意見に公然と反発した宦官がいた。張譲に負けず劣らずの権勢を誇る蹇碩だ。
「体調を崩して公務を執れないと、理由あっての辞任届けだ。彼のどこに身勝手な振る舞いがあるのかね?」
宦官らしからぬ蹇碩の壮健な身体に、張譲は少したじろいだ。
「な、何故、曹操のような奴を庇うのですか? 貴方の叔父をあの小僧に叩き殺されてるんでしょう?」
張譲や他の宦官は解せない様子だ。蹇碩は何故、曹操を擁護するのか理解できなかった。
曹操が京師で北部尉として警護していた十年近く前、蹇碩の叔父は城門の夜間通行の責を問われ、その挙げ句に曹操によって叩き殺されている。
「それとこれとは別の話。とにかく、この件に関しては曹操を捕縛する理由などない。次の東郡太守を派遣する方が先では?」
意に介する事なく蹇碩は自身の主張を通した。帝の寵愛を笠に着る蹇碩は、さすがの張譲も容易く手出しできない。
曹操に叔父を殺された件を、公私憚ることなく恨んでいると公言していた蹇碩が、今になって曹操を庇う発言をするとは、何かが可怪しい。
「どういうつもりで曹操を庇い立てするのか知らないですが、私を敵に回しても得することはありませんよ、蹇黄門」
「張常侍を敵に回そうだなんて気は毛頭ない。ただ、曹操を大した理由もなく罪に問うのは、過ぎた話だと思っただけの事」
「く……」
凄みを利かせた蹇碩の前では張譲も尻込みする他なかった。この場は仕方なく引き下がった張譲だが、蹇碩との凝りは後々まで引き摺って行くことになる。




