第一一六話 劉県尉
天下の中原を揺るがし、雒陽にまで席巻した大規模な反乱――黄巾の乱――から、二年近くが過ぎようとしていた。
しかし、各地では黄巾賊の残党が次々と反乱を起こしている。それに伴って混沌の度合いは加速度的に進んでいく。
青州は黄巾賊の残党が燻ってはいるが、東莱郡の人々は細やかながらも穏やかな日々を過ごしていた。
石真は県尉として県の軍権を預かっているが、彼が実は黄巾賊の残党であった過去を知るのは、ほんの数人しかいない。
地元である黄県には官吏の知り合いがいて、以前から賄賂を送っていた経緯があり、黄県を乗っ取る際に非常に役立った。
一昨年に赴任してきた頼りない王歳という県令は、この件について何も知らない。石真は表向き劉姓を名乗っており、本来は張姓である事を知る者は多くはない。
黄県は東莱郡の郡治であるから、太守(郡の最高責任者)や都尉(郡の最高軍権者)が置かれているが、やはり彼らも金でしか動かない外戚や宦官の縁者どもでしかなかった。
その中で石真は、黄巾賊に乗っ取られた県城を取り返した、無骨な地元の士族と思わせているようだ。しかし裏では従順に上司たちへの貢物を欠かさず送り続けている。
石真は東郡で略奪した金銀を献上し、赴任してきた上司たちに機嫌を取っているのである。
そして世平や蘇双も子義と一緒に黄巾の乱でのドサクサに紛れて、県尉になった石真の下で黄県の名目上の官吏になっていた。
世平はある日のこと李篤の家があった場所に訪れた。十数年前の世平が、張倹であった頃に匿ってくれた男だ。親友でもあった。
その李篤の邸宅は焼かれ、親族はすべて処刑されたらしい。李篤に賛同して張倹を見逃した毛欽という県令も、同じく親族共々行方知れずとなっていた。。
そればかりか、黄県で清流派と自称していた者、他称されていた者を問わず数十人が処刑され、やはりその親族まで処罰を受けた。
黄県だけでなく、東莱郡の清流派たちは一族郎党を根絶やしにされた。すべては張倹が蒔いた災いの種だったのだ。
さらに世平の哀惜に追い打ちをかけたのが、自分の一族は逃げ果せたおかげで滅亡を免れた事だった。
自分を匿った者は滅び、自分の一族は党錮の禁を解かれて故郷で暮らしている。まともな人間なら胸が傷まない筈がない。
党人として在野に潜伏していた者たちは続々と官職に復帰していると聞く。それは本望ではあるが……考えれば考えるほど辛くなるばかりだ。
「いったい、この十年間もの間、私は何をしてきたというのだろうか……」
今は無き李篤の邸宅があった場所に泣きながら崩れ落ち、世平は両膝と両手そして額を地面につけて咽び泣いた。
全身から漏れる嗚咽が低く掠れるまで泣き腫らした。多くの人間を巻き添えにしながら一時は賊に身を費やしてまで生き延び、今となってはその仇すらいない。
世平はこんな自分の存在価値を見いだせずにいるのだ。
黄老の教えに身を任せたハズの自分を、飽きもせず呪い続ける自分がいる。時折、自分ではどうしようもないくらいに慙愧の思いに駆られて身悶えてしまうのだ。
建物の残骸だけが虚しく散らばっている野原でしかない場所で、世平は日が暮れるまで地べたに這い蹲っていたのだった。
涙が枯れ果てた頃、遂に世平は帯刀していた短刀を鞘から抜いて、自分の首筋に短刀の刃先をあてがった。
「何をしているんですか?」
背後から聞こえてきた声に驚き、短刀を下に降ろして振り返る世平。そこに立っていたのは子義である。
「大丈夫ですか、世平どの。ご気分でも悪くされましたか?」
「いや、何でもないんだ。気にしないでくれ」
持っていた短刀は子義に見られたのだろうか。世平は少し動揺した。背後から話しかけて来たので、子義には見えなかったとは思うのだが。
「もうすぐ日が暮れます。城内に戻った方が」
「大丈夫だ、ありがとう。先に行っててくれ、すぐに私も行くから」
子義は心配そうな顔で世平を見やるが、首をゆっくり縦に振るとすぐに振り返って県城へと向かって行った。
奏曹史という東莱郡の上奏を取り扱う部署に務めていた子義は、今日中に青州府から預かった書簡を選定して県令に提出しなければならない。
東莱郡の郡治は黄県であり、郡を管轄する府がある。州と郡そして県の遣り取りは、盛んに行われており多忙な日々を過ごしていた。
「そうだ、こんな所で寄り道している場合じゃない!」
普段ならそれほど熱心でもない仕事ぶりの子義だが、今日は妙に力が入っている。劉県尉へ早急に知らせねばならない事情があるのだ。
県城内に入るやいなや、劉県尉が政務を行っている屋敷へと、駆け足で向かった。
「劉県尉、お知らせしなければならない件がありますっ」
「なんだ、子義よ。入ってくるなり騒がしいぞっ。静かにしろ」
石真は子義の拙速な行動を静かに諌めた。その表情は険しかったが、それに反して押し殺した声でしゃべっている。
子義は石真の異様な雰囲気に、暫し呆気に取られた。が、直ぐに我に返り石心に報告を続ける。
「は。すみません、実は……」
「いいか、もう少し小声で話せ。あまり大きな声を出してはならぬ」
「は。わかりました。それで、お伝えしなければならないのは……州からの書簡を整理していた時の事なのですが、とんでも無い内容の書状を見つけてしまったのです」
「まさか、それは俺に関する事じゃないだろうな?」
子義は石真の顔を不思議そうに見つめて言った。
「え、劉県尉のこと? なんで、ですか……」
「あ、いや、違うならそれでいいんだ……。で、なんだ一体、とんでもない書状というのは?」
「それが、その、黄県の官界に、黄巾賊の残党が紛れ込んでいると上書する内容なのです」
石真は息を呑んだ。いずれはこの日が来ると思ってはいたが、しかし自分が黄巾賊の残党だった過去がある経緯は、一部の人間にしか知られていない筈だ。
子義もその件について何も知らない。少なくとも石真はそう思った。




