第一〇二話 慈母
物音一つしない夜のとばりの中、とてつもなく大きな黄色い流星が、目が眩むほどの眩さで光を放ちながら、山の向こうへと落ちていく。
(あの流星は――、大賢良師――?)
巨大な流星の尾は散り散りになって方々へと飛んでいき、それが細かい粒子となって空の星々になっていくのが見えた。
(これが宇宙か――。我々はこの巨大な宇宙の中で生まれ落ち、そしていつか消えていく。普段は何気なく光っている夜空の星々が、人々の運命を司っているというが、私の星は一体どこにあるのだろう。私が求める道とは一体どこにあるのだろう――)
世平は夜空を見上げた後、自分の身体が薄っすらっと透けているのに気付いた。
(そうか――。私はこれから黄泉へと赴くのだな。覚悟は出来ていた。いや、それを望んでいながら、その道を進む事ができなかっただけなのかもしれぬ――)
(道とはこの宇宙そのものだ――、元節。無限に広がる夜空に浮かぶ儚く輝く無数の光――)
聞き慣れた声が夜の世界に響き渡る。いや、世平の心の中に誰かが話かけてきたのだろうか。
(其方が進むべき道は、私がすでに敷いてあるのだ。迷うことはない。その道を征くがよい――)
(その声は――大賢良師、貴方ですね――)
大賢良師、張角の声だ。間違いない、と世平は思った。
(大賢良師、懐かしい呼び名だな。だが、最後は天公将軍として生を全うした。道半ばで逝くことは後ろ髪を引かれる思いだが、今となっては私の人生において悔いなどない。ただ、残された信徒たちの行く末だけが気がかりだ。元節――)
世平も太平道の信徒たちの行く末を案じて、故郷に帰る選択肢を抹消したのだ。
(今にして思うと、貴方が瀕死の私を救い、黄老の教えを説いたのは、この日の為だったのですね――)
世平の問いかけに対して張角の返答はなかった。本当に張角の声だったのだろうか。
気が付くと、夜空の向こうに見える山々が薄っすらと赤みを帯びてきた。日の出が始まる。
一旦、赤みを帯びだすと、日の出が通常では有り得ない早さで昇り始める。光の帯が何重にも空へ広がり、一瞬で世界が光で包まれた。
「世平どのっ、目が覚めたのですか……良かった。あれから丸一日寝たきりだったから」
蘇双の顔が見える。安堵した表情で世平を見つめていいるのがわかる。身体は怠いが病の症状が一山越えた事はなんとなくわかった。
「物凄い熱だったんですよ、一時はどうなるかと思いましたよ。でも良かった、目が覚めて……」
「ここは……?」
辺りを見回すとどこかの民家の中で寝かされている事に気付いた。民家と言っても部屋は広く綺麗で、中流以上の家柄でありそうな雰囲気である。
蘇双の後ろには、白髪交じりの髪を綺麗に結った女性が見えた。女性の身形は慎ましいが気品があり、またシワが多い顔の表情から心の優しさを感じる取る事ができた。
「この女性と息子さんが助けてくれたのです。宿を貸して頂いた上にお食事まで頂きました。なんとお礼を言ってよいやら」
世平はその話を聞くと、無理に身体を起こして正座して女性に頭を下げた。
「本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げてよいのやら。私には何もお返しする物はありませんが、この御恩は必ずや……」
「まだ熱が下がったばかりです。無理は禁物ですよ。さぁ、横になってもう少しお休みになって下さい。息子が畑から滋養になる彩菜を採ってきてくれますから」
世平は嬉しさと有り難さで涙が止まらなかった。人の優しさが心に染みる。見ず知らずの者にここまでしてくれるのか。蘇双も同じく涙を流して感謝していた。
「ただいま、母さん」
助けてくれた女性の息子と思しき人物が帰ってきた。身の丈七尺七寸(約一八〇センチ)ほどであろうか。筋骨隆々で整った顔つきのしかも好青年、母にとっては自慢の息子なのだろう。
恐らくは蘇双とこの大柄な青年と二人で、自分の身体をここまで運んできてくれたのであろうことは、容易に想像がついた。
「残念だけど、滋養になる食い物なんか無かったよ。なあんてな。ほら、近所の李おじさんが薏苡仁をちょっとくれたよ。滋養がある高価な食い物らしいぜ」
薏苡仁とは鳩麦の事である。むくみの解消や肌荒れなどに効く生薬として知られているそうだが、滋養強壮としての効果もあるらしい。
「そうかい。子義や、ありがとう。さっそく、今作っている羹にいれてみようかねぇ」
爽やかに登場してきたこの青年は、彼の母に子義と呼ばれていた。
「薏苡仁は、光武帝に仕えた忠成侯が、交趾(ベトナム北部周辺)での反乱を鎮圧した際に、彼が中原に持ち帰った穀物だと言われている。それにしても、助かったよ。本当にありがとう」
病み上がりの世平が横になったままで子義に話しかけた。
「忠成侯か。俺も知っているよ、爺さん。光武帝の下で数々の武勲を挙げた名将、馬援将軍のことだろう。俺もいつかは彼のような男になりたいと思っている」
ハキハキと闊達な饒舌りで学識もちゃんとある。この青年は只者ではないと、何故か世平は直感した。
聞けば彼は若くして学識を積み、東莱郡の官吏として勤める予定だったらしい。
本来なら今月より出仕する手筈になっていたのだが、黄巾賊が黄県を乗っ取ってしまった為に、話が有耶無耶になってしまったのだという。
「腕に自身はあるんだ。自分でいうのもなんだけど、ケンカで負けた事は一度もないんだぜ。この腕で黄県に巣食う賊どもを討滅してやる」
子義の大言を聞いた彼の母親は、立ち上がって静かに諭した。
「子義や。貴方の正義感を私は誇りに思います。しかし、今の貴方は腕っ節が強いだけの腕白坊主に過ぎません。もっと頭を使って人の役に立てるようになりなさい」
母親の言葉に子義はぐうの音も出ない。その場に胡座をかいて座り込み、ため息をついた。
「わかってるよ、母さん。オレだってバカじゃない。黄巾賊を追い出すための、何か良い方法があるハズだ」
世平と蘇双は黙り込んでしまった。自分たちはその黄巾賊と呼ばれている、太平道の元信徒なのである。
「さぁ、それより一緒にお食事をしましょう」
横になっていた世平も食事の時はさすがに起き上がって皆と一緒に正座して食事を摂った。




