第一〇〇話 黄県
時期は少し戻るが、七月には張脩という渠帥が率いる米賊が、益州巴郡の地で蜂起したという報せが京師に入った。
人々は戦々恐々としていたが、そこで一人心躍らせていたのが張譲である。
米賊と呼ばれるのは、信者が入信する時に五斗(約十リットル)の米を納めさせたという所以からだ。
その張脩が率いる米賊反乱の報せ、は巴郡より遥か遠くの、ある男の所まで届いていた。
そして報せは人の言によるものではない。またしても彼の夢の中で語りかけてくる者がいる。
霧深い岩肌の山頂で杖をついて立っている老人が見える。見覚えがある。いや、よく知っている男だ。
(脩が、ついに官軍に反旗を翻し郡県を荒らしまわっている。結局、張角に呼応して賊軍に成り果ててしまったのだ。その張角も黄泉の入り口まで来ておるようだが――)
(大賢良師の死期が近いのは、薄々感づいておりました――)
(多くの人間が、脩や角たちが起こした争いに巻き込まれた、いや、彼らが道を誤り、力に拠った革命を起こそうとした事で、天下の人々を戦禍に巻き込んだといえよう――)
(政官が腐敗し末端まで汚職や横領が跋扈する時代です。飢えた者たちが道に迷って間違いを起こすのは分からなくもありません――)
(間違いと知りながら道を逸れるのは愚かな事だ。お主もまた道を外れてしまったのか――)
(私は自分の進む道に迷っているとは思っていません。しかし、だからと言って正しいという自信もありませぬ。今はただ己の決めた道を迷わず進んでいくしかないのです――)
(己の決めた道か――。所詮は人が為す事、即ち、自然に反する。上善は水の如しだ。水は流れに逆らわず常に下も流れる。その時に応じて形を変えて抗う事をしない。しかし、その勢いを得た時は岩をも穿つ力がある――)
(老子のお言葉ですね。今、然と思い至っております――)
(望みを託せるのは、其方と息子の魯だけだ――)
(魯――? 貴方のご子息ですか――)
返事は返ってこなかった。いや、ザッという音ともにその老人は遠くへ消え去り、辺りが暗くなった。
そして、その雑音が地面を打つ雨音だった事に気付いて、張世平はようやく目を覚ました。
「大丈夫ですか? 魘されていたようですが」
蘇双の声が懐かしく思えた。いつも一緒にいる筈なのに。
「ここは?」
「ここは……って、青州じゃないですか。東萊郡の黄県に昨日、着いたばかりですよ。まだ目が覚めてないのですか」
「あ、ああ。そうだな、そうだったよ。黄県だったな……」
世平は横になったままで、まだうつろな顔をしてしゃべっている。
「しっかし、世平殿、呑気に夢を見てる場合じゃないでしょう」
蘇双の顔は見えないが、彼の声の口調からいつもの呆れ顔が想像できる。
「ん? あ、ああ……」
世平は完全に目を覚ましたようだが、自分で起き上がろうとしたが、身体はついてこない。
「ふう、手が……」
「起き上がれますか? 両手を後ろに縄で縛られてるんですから、私のように身体が柔らかくて瞬発力がないと難しいかも」
蘇双は胡座をかいて座っているが、やはり両腕を後ろに縄で縛られている。おまけに二人が縛られている縄は、近くの大きな木にまで続いている。
雨は降っているが、大きな木の木陰の下なので、少しはしずくで濡れる程度だ。
だんだんと世平は思い出してきていた。何故、自分たちが縛られているのかを。
東郡の東阿県を出た後に山陽郡の高平県に立ち寄り、石真の部曲たちと共に目指したのは、石真の故郷である青州の東莱郡黄県。
兗州東郡から青州東莱郡を目指すには、霊峰、泰山山脈を迂回しなければならない。
南東側から回れば大変な遠廻りとなってしまう。自然と北東側の青州斉国方面からへの行路を取るこになる。
青州は春秋時代には斉国と呼ばれ、由緒ある歴史を誇る国であり、桓公という春秋時代を代表する覇者を輩出した。
斉国の首都である臨淄は昔から人口の多い大都市である。また、青州の州治(州の治所)でもあった。製鉄、銅銭鋳造、陶器など、古くから重工業で栄えた。
しかし後漢時代の斉国は、栄えていた春秋時代に比べて、一郡にしか相当しない漢の皇族が所有する小さな国であるが、それでも人口は五十万を超えていた。
その東に隣接している北海国のさらに東に隣接している東莱郡は、現在の山東半島の先の部分を有しており、製塩や漁業などの産業が盛んな土地柄である。
青州でも黄巾賊による一斉蜂起があちこちで頻発したが、政官の軍は黄巾賊に対抗する兵力も気力も備わっておらず、彼らのしたい放題になっていた。
兗州東郡からこの青州東莱郡に来るまでの間、ひと月半ほどの道程であったが、石真はその間の略奪行為等は一切禁じて、東阿県で得た食料で皆の食事を賄っていた。
しかし、この黄県に来てからは、石真の率いる軍勢が掌を翻すように略奪を始めたのだ。
もちろん世平は蘇双と共に大反発して略奪を止めさせようとしたが、逆に縛り上げられて木に括りつけられてしまったという経緯である。
「これから黄県の県城に攻め上がる。そこからよく見ておくがいい」
石真は振り向きもせず、上を見上げたままで言った。低く太い声だったが、世平にはその声がどこか物憂げな囁きにも聞こえた。




