第八話: 聖域の法則
変貌した国立中央アーカイブ――ジュリアン・アッシュフォードが『聖域』と名付けた領域の周囲には、この星のいかなる場所よりも精密な観測網が、わずか数時間で構築されていた。
環太平洋合衆国が誇る、最新鋭の観測機器を搭載した特殊車両。その中で、ジュリアンは目の前のホログラムに表示される、膨大なデータストリームを恍惚の表情で見つめていた。
「主任! 空間エネルギー値、計測不能! 領域内の重力定数が、常に微細な変動を続けています!」
「情報エントロピーが逆転しているポイントを複数確認! あり得ません! 物理法則が……!」
部下たちの悲鳴に似た報告が飛び交う。彼らは皆、自らが信じてきた科学の常識が、目の前でいとも容易く否定されていく様に、混乱し、恐怖していた。
だが、ジュリアンだけは違った。
「素晴らしい……。なんと美しいデータだ……」
彼の呟きに、部下の一人が恐る恐る問いかける。
「美しい、ですか……? これは、我々の科学では説明不能な、完全なカオスです!」
「違うかね?」
ジュリアンは、椅子を回転させ、部下たちに向き直った。その瞳は、狂信的とすらいえるほどの探究心に燃えている。
「カオスに見えるのは、君たちが旧世界の物理法則という、あまりに矮小な物差しで測ろうとしているからだ。これはカオスではない。全く新しい、完璧な『法則』に支配された、新しい宇宙なのだよ」
彼は立ち上がり、ホログラムのデータに指で触れる。
「我々の仮説は正しかった。この領域は、我々の宇宙とは異なる物理法則で『上書き』されている。そして、これほど高度な法則を設計・維持できる存在がいる。我々がコードネームで『創造主』と呼んできた、知的存在がね」
彼は、この現象を引き起こした何者かに、畏敬の念すら抱いていた。
プロジェクト『カサンドラ』が何世代にもわたって追い求めてきた、理論上の存在。その最初の御業が、今、目の前にある。
「仮説を、実証へと進める。探査機の準備を。聖域の内部へ送り込む」
◆◆◆
小型の無人探査機が、静かに浮上し、変貌領域の境界線へとゆっくりと接近していく。
ジュリアンは、探査機からの映像と、観測データを食い入るように見つめていた。
「探査機、領域境界に到達。これより内部へ侵入します」
探査機のカメラが、ノイズのように揺らめく空間の境界を越えた、その瞬間だった。
観測機器のあらゆるアラートが、甲高い悲鳴を上げた。
「なんだ!? 探査機の構造情報が……書き換えられていく!?」
モニターに映し出された映像は、悪夢そのものだった。
金属でできていたはずの探査機が、まるで粘土のようにその形を変え、有機的な曲線を描き始め、未知の結晶体と融合していく。それは、もはや機械ではなかった。見たこともない、禍々しい機械生命体へと「進化」していく。
そして、その進化した「何か」が、カメラをこちらに向けた。レンズの奥で、赤い光が灯る。
次の瞬間、映像は爆発的なノイズと共に途絶した。
「通信、ロスト! 探査機、完全に沈黙!」
部下たちが絶句する中、ジュリアンは、ただ一人、歓喜に打ち震えていた。
「……ハッ。ハハハ! 素晴らしい! 防衛機構まで備えているとは! 我々の理論は、やはり正しかった!」
彼は、この現象を引き起こした『創造主』の存在を確信した。そして、その圧倒的な知性と力に、挑戦心を燃やしていた。
こんな面白いパズルは、生まれて初めてだ。
「次の手を考えるぞ。今度は、もっと高度な対話を試みる。この聖域の主は、我々の接触を待っているはずだ」
彼が、新たな計画に思考を巡らせ始めた、その時だった。
車両のハッチが開かれ、副官が緊張した面持ちで報告に来た。
「主任。極東自治区の《ウォール》総指揮官、御剣 冴子が、面会を求めてきています」
ジュリアンは、面白そうに口の端を吊り上げた。
「ほう。この国の人間が、ようやく挨拶に来たか。通せ」
異なる立場と思惑を持つ二人が、今、初めて同じ場所で顔を合わせる。