第9話、華燭の典
皖城が久しぶりに見せる華やいだ空気の中で婚礼は執り行われた。
城内の復興はまだ道半ばではあったが、この日のために屋敷は美しく飾り付けられ、江東から集まった将兵や役人たちの熱気が満ちている。
大喬は鏡に映る自分の姿を静かに見つめていた。燃えるような赤に、繊細な金の刺繍が施された婚礼衣装。侍女たちが丹念に結い上げた髪には、きらびやかな簪が挿されている。
これ以上ないほど美しく整えられたその姿は、しかし、どこか現実感を欠いていた。
隣では、同じように婚礼衣装を纏った小喬が、不安と期待が入り混じった表情で、落ち着きなく姉の手を握っている。
「大丈夫よ、小喬。私が付いています。」
妹に言い聞かせながら、それは自分自身にも向けた言葉だった。
今日から、自分たちの人生は否応なく変わる。
孫策の妻、周瑜の妻として生きる道。覚悟は決めたはずだった。それでも、未知への不安が心を掠める。
やがて儀式の始まりを告げる声が響き、姉妹は侍女たちに促されて広間へと歩みを進めた。
広間には既に多くの人々が集い、その視線が一斉に注がれる。その中央には、凛々しい婚礼衣装に身を包んだ孫策と周瑜が立っていた。
孫策は江東の覇者たる威厳を漂わせながらも、大喬が広間に入ってきた瞬間、その瞳に抑えきれない熱が灯るのを、大喬は確かに感じた。周瑜もまた、小喬に穏やかで優しい眼差しを向けている。
儀式は、厳かに、そして滞りなく執り行われた。互いに杯を交わす時、孫策の指先が微かに触れた。その瞬間、大喬の心臓が大きく跳ね、顔に熱が集まるのを感じた。
周囲の祝福の声や喧騒が、どこか遠くに聞こえる。ただ、目の前にいる孫策の存在だけが、妙に大きく感じられた。彼と視線が合うたびに、その真剣な眼差しに射抜かれそうになる。
自分は、この人の隣で生きていくのだ。
その事実が、儀式が進むにつれて、重く、そして確かな現実として迫ってきた。
その夜、新しく整えられた夫婦の寝室には、重たい沈黙が流れていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、部屋に置かれた灯りの揺らめきだけが、壁に二人の影を映し出している。大喬はどう振る舞えばいいのか分からず、ただ俯いていた。
不意に、孫策がゆっくりと近づいてきた。彼はいつもの猛々しい覇気とは違う、どこか不器用で、緊張したような面持ちをしていた。
「大喬。」
名を呼ばれ、大喬は顔を上げた。彼の瞳は真剣そのものだった。
「今日から、そなたは俺の妻だ。分かっている。そなたの心の中には、まだ俺を許せない気持ちや、多くの葛藤があるだろう。それは、当然のことだ。無理に忘れろとは言わない。俺のこれからの行動で、少しずつでも、示していくしかないと思っている。」
彼は一度言葉を切り、少し照れたように視線を彷徨わせた後、再び大喬の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だが、これだけは信じてほしい。俺がそなたを、誰よりも大切に思うこの気持ちに、嘘はない。」
そして、彼は江東の未来について語り始めた。
父・孫堅の遺志を継ぎ、この乱世を終わらせ、民が安心して暮らせる世を築きたいのだと。
その瞳には、野心だけでなく、純粋な理想を追う青年の輝きがあった。「小覇王」の仮面の下にある、彼の素顔の一端に触れた気がした。
大喬は、孫策の不器用ながらも誠実な言葉に、強張っていた心が少しずつ解けていくのを感じていた。
憎しみや反発心が消えたわけではない。
しかし、この人の隣で、彼が描く夢を、そしてそれを追い求める姿を、見守りたい。
そんな気持ちが確かに芽生えていた。彼女は静かに頷いた。
「孫策様のお気持ち、分かりました。貴方様のこと、そして貴方様が創ろうとなさる江東のことを、これから、妻として、しっかりと見させていただきます。」
その言葉には、新たな人生への覚悟と、同時に、冷静に状況を見極めようとする彼女自身の強い意志が込められていた。
孫策は、その返事に安堵したような穏やかな表情を見せた。
翌日から、大喬の生活は一変した。
孫策の妻として、奥向きに関わることになり、侍女たちとの関係も以前とは変わった。
彼女の聡明さと気丈さはすぐに侍女たちの信頼を集め、自然と多くの情報が彼女の耳に入るようになった。
孫策の側近たちの内々の会話、屋敷に出入りする商人たちがもたらす外部の噂、そして時には、孫策自身が政務の合間に漏らす本音…。
大喬はそれらの情報を注意深く拾い上げ、頭の中で整理し、江東の現状と孫策を取り巻く人間関係の地図を少しずつ描き始めていた。
結婚という大きな岐路を経て、大喬の物語は新たな章に入る。孫策の妻として、彼の最も近くでその素顔に触れ、江東の激動の時代を見つめる日々。
そしてその華やかな生活の陰で、彼女の密やかな情報収集は、より深く、より慎重に続けられていく。
これにて、第1章終了です。
ここまでお読みいただきありがとうござきます。
第2章からは、江東の完全な平定に向けて動き始めます。