第32話、錦、交わる
誇り高き西涼の錦・馬超は、今は追われる身となり、縁もゆかりもない荊州の地に流れ着いていた。
かつて、孫尚香が水月の活動の中で長安を訪た際に、同じく長安に来ていた馬超と出会っていた。
父の仇を取れず、鬱々とした日々を過ごしていた馬超に対して、孫尚香は普段は明かすことのない自分の出自を語り、彼と語り合った。
同じように父を無くし、そして仇を討った孫策の話は、馬超の心に強く響いた。
孫尚香は決して、蜂起を唆したりはしなかった。ただ父を無くしてからの身の上と、兄の姿を語った。彼の姿にかつての自分を重ねていたのかもしれない。
そして、もし、困ったときには訪ねてきてほしいと伝えていた。
(ここまで来てしまった…。だが、今の俺はぬけぬけと顔を出せる身ではない。)
陽光眩しい長江の流れも、今の馬超にとってはただ虚しいだけだった。渭水のほとりで曹操に大敗を喫し、父も弟も失った。
かつての勇猛な姿は見る影もなく、着物は汚れ、その端麗な顔には深い疲労と絶望の色が刻まれている。
供も僅かとなり、異郷の地でただ息を潜める日々。西涼の民の期待を一身に背負っていた彼の肩は、今は重く垂れ下がっていた。
そんな最中のある日、甘寧は任務を終え、部下と共に港町の酒場に立ち寄った。活気あふれる店内の一隅で、黙々と酒を呷る一人の男が目に留まった。
身なりはみすぼらしいが、その体躯と、時折見せる鋭い眼光は、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。
「おい、お前さん、見ねえ顔だな。どこのもんだ?」
甘寧は持ち前の気安さで声をかけた。
男…馬超は、ゆっくりと顔を上げた。異郷のなまり。警戒心を解かずに低い声で答える。
「流れ者だ。」
「流れ者、ねえ。だが、ただのチンピラには見えねえな。その目つき、ただもんじゃねえ。」
甘寧はニヤリと笑い、馬超の向かいにどっかりと腰を下ろした。
「まあ、飲めや。ここは俺のおごりだ。」
馴れ馴れしい態度に、馬超は眉をひそめた。
だが、差し出された酒を無下にする気にもなれず、黙って杯を干す。
「…世話になる。」
「おうよ。俺は甘寧だ。孫策様にお仕えしている。」
「……。」
馬超は名乗らなかった。今の自分に「錦馬超」を名乗る資格はないと思っていた。
その後も、甘寧は何度か馬超の姿を見かけた。時には物陰で剣の素振りをし、時には遠く西の空を眺めて物思いにふけっている。
その孤独な姿と、隠しきれない武人の気配に、甘寧は次第に興味を引かれていった。
ある夜、孫策軍の兵士を名乗るならず者たちが、略奪まがいの行為を働こうとしていた。
馬超は武器を持たなかったが、驚くべき速さでならず者たちに飛びかかると、その卓越した体術で瞬く間に数人を打ち倒した。
その動きの鋭さ、無駄のなさ、そして内に秘めたる闘気の凄まじさに、駆け付けた甘寧は目を見張った。
甘寧は刀を鞘に収めながら、馬超に向き直った。
「お前さん、本当は何者だ?その腕、ただの浪人じゃねえだろう。」
馬超はしばし逡巡したが、この男の真っ直ぐな目に、嘘をつく気にはなれなかった。
「…馬超。」
その名を聞いた瞬間、甘寧の目が大きく見開かれた。
「ば、馬超だと!?あの西涼の錦馬超か!?」
驚きと、どこか尊敬の念が入り混じった声だった。
「今はただの敗残兵だ。」
自嘲気味に言う馬超に、甘寧は首を振った。
「敗残兵だろうがなんだろうが、あんたの武名は俺も聞き及んでいる!曹操をあれほど苦しめた男が、こんなところでくすぶっているのはおかしいだろう!」
甘寧の言葉は、馬超の心の奥底に眠っていた誇りを、わずかに揺り動かした。
「再起など、できるものか。一族も、故郷も、全て失ったのだ。」
「失ったもんは戻らねえ!だが、あんたにはまだその腕と、魂があるじゃねえか!ここで腐っちまってどうする!」
甘寧の叱咤は、荒々しいが、不思議と馬超の心に響いた。賊上がりと呼ばれ、出自を揶揄されることもあった甘寧だからこそ、境遇に屈しない強さを持っていた。
「俺も昔は『錦帆賊』なんて呼ばれて、好き放題やったもんだ。だが、今は孫策様のもとで、この孫呉を守るために戦っている。過去は変えられねえが、未来は自分で切り開ける!」
甘寧は自分の派手な錦の腰帯を指さした。
「この『錦』は、俺の誇りであり、覚悟の証だ。あんたの『錦』も、ただの過去の飾りじゃねえはずだ!」
その言葉に、馬超はハッとした。
そうだ、自分は西涼の錦・馬超。父や弟、民の無念を晴らすまでは、死ぬわけにはいかない。
この男…甘寧の言う通りだ。ここで朽ち果てるわけにはいかない。
「…甘寧殿。」
馬超は初めて、しっかりと甘寧の目を見て言った。
「世話になった。そして、礼を言う。」
その目には、かつての鋭い光が戻り始めていた。
「へっ、礼なんていいさ。それより、どうする?このままくすぶってるつもりか?」
「いや。」
馬超は立ち上がり、埃を払った。
「もう一度、戦う。曹操を討つために。」
「それでこそ錦馬超だ!」
甘寧は満足そうに笑った。
「なら、まずは力を蓄えなきゃならんだろう。俺が孫策様に口利きしてやる。あんたほどの武人がいれば、殿も喜んで迎え入れるはずだ。」
「ああ…、いや、紹介なら、孫尚香殿を通さなければ…。」
歯切れ悪く、馬超は答える。
「はぁ!?なんで姫様が出てくるんだよ!まあ、いいや、行くぞ!」
こうして、西涼の錦・馬超と、江東の錦・甘寧は出会った。出自も境遇も異なる二人だったが、互いの武勇を認め、その魂の奥底にある「錦」の輝きに共鳴し、固い友情の絆を結んだ。
馬超は孫尚香と甘寧の推薦により孫策に仕え、再起の機会を得る。甘寧は、信頼できる戦友を得て、ますますその武勇を発揮していく。
長江のほとりに、二つの錦が並び立ち、新たな伝説を紡ぎ始めることになる。それは、敗北と流浪の果てに見つけた、かけがえのない友情の輝きだった。




