【閑話三】紅涙の契り
小喬が、孫策の側室として正式に迎えられた、その夜のことだった。
新しく整えられた彼女の部屋に、月明かりが静かに差し込んでいる。灯りの下で、小喬は一人、夫となる人を待っていた。胸の中には、緊張と、不安と、そしてほんの少しの、未来への期待が入り混じっていた。
やがて、静かに扉が開かれ、孫策が入ってきた。彼は、いつもの覇気とは少し違う、改まった、そしてどこか緊張した面持ちで、小喬の前に立った。
「小喬…。そなたの決断、正直、驚いた。だが…本当に、嬉しかった。」
その声は、掠れていた。彼はゆっくりと小喬の前に膝をつき、彼女の手をそっと取った。
「俺から言うべきだった。いや、言うべきではなかったのかもしれない…。俺たちの始まりは、決して許されるものではなかった。俺は…お前と、そして周瑜を裏切った。その罪は、生涯背負っていく覚悟だ。」
彼は一度言葉を切り、小喬の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だが、これだけは信じてほしい。俺の心は、ずっと、お前に強く惹かれていたのだ。この襄陽で再会した時から…いや、もっと前からかもしれん。そなたの可憐さに、天真爛漫な明るさに、俺はどれほど心を温められたことか。そして、周瑜を失い、悲しみに暮れるそなたの姿を見ては、胸が張り裂ける思いだった。守りたい、支えたい、愛おしいと…心の底からそう思ったのだ。」
彼の目に、熱いものが込み上げてくる。
「小喬…俺は、お前を愛している。決断は、そなたに先を越されてしまったが…改めて、俺の口から伝えさせてほしい。どうか、これからの人生を、俺と共に生きてはくれないだろうか。」
その真摯な、魂からの告白に、小喬の瞳から大粒の涙が止めどなく溢れ出した。
それは、これまでの悲しみや罪悪感を洗い流すような、温かく、そして浄化されるような涙だった。
彼女は、こくりと頷き、しゃくり上げながら答えた。
「はい…孫策、様…わたくしも…。」
孫策もまた、彼女の涙に誘われるように、その頬に涙を伝わせた。
どちらからともなく、二人は顔を寄せ、涙で濡れた互いの唇を重ね合わせた。それは、しょっぱく、そしてどこまでも優しい口づけだった。そして二人は、互いを強く、強く抱きしめ合った。
「うぅ…。」
小喬は、孫策の逞しい胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。しかし、それはもう絶望の涙ではない。
張り詰めていた心の糸が切れ、安堵と、そして深い愛情に包まれる喜びの涙だった。彼の腕の中は、驚くほど温かく、そして安心できた。
(ああ…私は、ずっと、この場所に帰りたかったのかもしれない…。)
孫策は腕の中で震える華奢な体を、壊れ物を扱うように、だが力強く抱きしめた。
彼女が一人で耐えてきたであろう孤独、悲しみ、そして周囲からの批判。
その小さな肩に、あまりにも重いものを背負わせてしまったことを、彼は改めて痛感し、深い悔恨と、それ以上の愛おしさを感じていた。
互いの体温を、鼓動を、そして涙を感じ合いながら、二人の静かな抱擁は、しばらくの間続いた。まるで、互いの心に空いた穴を、その温もりで埋め合わせるかのように。
それはもう、過去の悲しみや空虚さを埋めるための代償行為ではない。互いをはっきりと見つめ、互いの存在を全身で受け止め、愛し合い、求め合う、真実の結合だった。
小喬の中に深く満ちていく孫策の熱と力。彼女を強く抱きしめる逞しい腕。
孫策は改めて、この可憐で、そして強い意志を秘めた女性を、心の底から愛おしいと思った。
小喬もまた、全身で孫策の存在を感じながら、自分がどれほどこの瞬間を、この繋がりを求めていたのかを、はっきりと理解していた。
互いの名を呼び合い、想いを確かめ合いながら、二人は一つになる。
数日後、孫策は一人、周瑜の墓前に静かに佇んでいた。彼は、秋空の下、墓石に向かって心の中で語りかけた。
(周瑜…すまない。だが俺は、お前の妻であった小喬を、これからは俺自身の妻として生涯をかけて愛し、守っていくと誓う。いつか、俺もそちらへ行く日が来るだろう。その時はお前に叱られる覚悟はできている。だがそれまで、もう少しだけ、小喬と、そして俺たちの未来を、どうか、見守っていてくれ…。)
吹き抜ける風が、まるで今は亡き親友からの返事のように、孫策の頬を優しく撫でていった。




