第22話、突然の喪失
孫策の号令一下、江東・荊州の精鋭を乗せた大船団は長江を遡り、一部は険しい山道を踏破して、西なる益州の地へと進軍を開始した。
天下二分の計の第二段階。
豊かな益州を手中に収めれば、北の曹操と対峙するための確固たる基盤が築かれる。
兵たちの士気は高く、その進軍は当初、驚くほど順調に進んだ。
益州の牧である劉璋は、温厚篤実な人物ではあったが、乱世を乗り切るにはあまりに優柔不断だった。
彼の統治に不満を抱く者、あるいは勢いに乗る孫策に未来を託そうと考える者たちが、益州内部から次々と孫策軍に内応してきたのだ。
「某所の関守は、我らに味方することを約束しております。」
「この先の道案内は、我らにお任せください。」
彼らの手引きにより、孫策軍は主要な関所を次々と突破し、先鋒部隊は早くも益州の中心地・成都に迫る勢いを見せていた。
「この分なら、益州平定も時間の問題かもしれんな!」
前線の陣中では、楽観的な声も上がり始めていた。
しかし、孫策の傍らにあって常に冷静な周瑜は、油断を禁物と考えていた。敵地深く進むほど、予期せぬ抵抗や伏兵の危険は増す。
彼は、後方で作戦全体を統括するだけでなく、自ら前線に近い拠点へと移動し、直接指揮を執ることで、戦局をより確実に掌握しようと決断した。
周瑜は、少数の護衛兵だけを連れ、険しい益州の山道を進んでいた。
眼下に広がる益州の豊かな大地を見下ろし、天下二分の計が着実に進んでいることを実感しながら、しかし心のどこかで一抹の不安も感じていた。
あまりに順調すぎる戦況。
敵は、このまま黙って成都を明け渡すはずがない…。
その不安は、最悪の形で現実となった。
狭く、見通しの悪い谷間に差し掛かった、まさにその時だった。
「敵襲ーーっ!!」
突如として、左右の山林から鬨の声が上がり、無数の矢が雨のように降り注いだ。
同時に、武装した伏兵たちが、喊声を上げながら襲いかかってきた。
「周瑜様をお守りしろ!」
護衛の兵たちは、身を挺して周瑜を守ろうとするが、敵は明らかに周瑜ただ一人を狙っている。
地の利を得た伏兵の攻撃は熾烈を極めた。
周瑜自身も冷静に剣を抜き、指揮を飛ばしながら応戦するが、多勢に無勢、そして何より奇襲による混乱は大きい。
乱戦の中、一本の矢が、ヒュッと音を立てて周瑜の腹部へと吸い込まれた!
「ぐ…ぅっ!」
激痛が全身を貫き、周瑜はその場に膝をついた。
視界がかすみ、意識が遠のいていく。矢には毒が塗られていたのか、傷口からどす黒い血が流れ出し、急速に体力が奪われていくのが分かった。
「周瑜様!!」
護衛たちの悲鳴が響く。幸い、後続の部隊が異変に気づき、すぐに駆けつけてきたため、伏兵たちは潮が引くように退散していった。
しかし、残されたのは、地に倒れ、虫の息となった周瑜の姿だった。
兵たちは必死に応急手当を施したが、傷は深く、毒の影響も明らかだった。
もはや、その場での治療は不可能。周瑜は、意識朦朧としながら担架に乗せられ、襄陽へと急ぎ搬送されることとなった。
周瑜重傷――その報せは、襄陽で吉報を待っていた孫策と大喬、そして小喬の元にも、雷鳴のように届けられた。
三人は、何かの間違いではないかと耳を疑いながらも、城門へと駆けつけた。
やがて、遠くから担架を運ぶ一団が見えてくる。そして、その上に横たわる、変わり果てた周瑜の姿が……。
かつての「美周郎」と謳われた面影はどこにもない。顔は土気色に染まり、血の気を失った唇はかすかに震えている。目は虚ろに閉じられ、ただ浅い呼吸を繰り返すのみ。
「周瑜っ!! 嘘だと言ってくれ! 周瑜!!」
孫策は、理性を失ったかのように絶叫し、担架に駆け寄った。大喬も、その惨状に言葉を失い、ただ立ち尽くす。
そして、小喬は…
「しゅ…周瑜様……? いやぁぁぁぁぁーーっ!!」
絹を引き裂くような悲鳴を上げ、泣きながら担架に取り縋り、夫の名を呼び続けた。
屋敷に運び込まれた周瑜の元へ、すぐに于吉が呼ばれた。彼は、静かに周瑜の脈を取り、傷口を入念に診察した。そして、重々しく口を開いた。
「残念ながら、矢に塗られていた毒が、既に臓腑にまで回っております。傷そのものも、極めて深い。もはや、いかなる名医であろうとも…手の施しようが…。」
その非情な宣告は、残された僅かな希望さえも打ち砕いた。
その時、周瑜がかすかに目を開けた。
朦朧とした意識の中で、彼は傍らに涙を浮かべて立つ大喬の姿を認めると、最後の力を振り絞るように、弱々しく手招きをした。
大喬が、震える手でその手を取ると、周瑜は途切れ途切れの声で囁いた。
「…大喬、殿…。どうか…孫策のこと…頼みます…。そして…我が妻…小喬のこと…も……貴女、なら…安心、して…。」
その瞳には、親友への絶対の信頼と、愛する妻への深い愛情、そして志半ばでこの世を去る無念さが、痛いほどに浮かんでいた。
「…はい。お任せください、周瑜様。必ず…。」
大喬は、涙をこらえ、力強く頷いた。
その言葉に、周瑜は安堵したように、ほんのわずかに口元に笑みを浮かべたように見えた。
彼は、隣で泣きじゃくる小喬の手を弱々しく握りしめ、そして…静かに、息を引き取った。
享年、二十六。
江東の、いや、中華の未来を担うと嘱望された稀代の軍師・周瑜。
その輝かしい星は、益州の険しい山中で、予期せぬ凶矢によって、あまりにも早く墜ちてしまった。
孫策の慟哭が、襄陽の空に響き渡った。
小喬は、冷たくなっていく夫の亡骸を抱きしめ、ただただ泣き続けた。
大喬もまた、信頼すべき協力者であり、愛する妹の夫であった周瑜の死に、深い悲しみと、彼から託された言葉の重みを、身をもって感じていた。
周瑜という、孫呉にとって掛け替えのない大黒柱の喪失。
それは、順調に進んでいたかに見えた益州攻略、そして孫策の天下への道に、暗く、そしてあまりにも大きな影を落とす、計り知れない悲劇であった。




