036 帝都エゼルウート ローダインにて①
ゼーラーン卿たちは、予定より二日早くローダインへ到着した。
辺境を越えるまで彼らの進軍を阻んでいた雪は、帝都エゼルウートへ近づくにつれ勢いを弱めていく。白に閉ざされていた道はやがて濡れた石畳に変わり、吹き荒れていた雪嵐も、今では屋根の上にまばらに積もるだけだった。木々の梢には氷の雫が垂れ、溶け落ちるたびに、夜の街道へ小さな音を響かせていた。
ローダインの都エゼルウートは、古代より数々の王朝の首都として栄え、権力の象徴として君臨してきた。大陸を巡る街道の多くはこの地を起点としており、旅人や商人は必ずここを通る。「千の道が通る都」と呼ばれる所以である。
都の中央には壮麗な宮殿がそびえ立ち、灯を宿した塔の影が冬空に黒々と浮かんでいた。そこは皇帝とその親族の住まいであり、議場や執務機関、文書庫、迎賓館を抱え込む巨大な要塞にして政の心臓部だった。
宮殿はラウマーレと呼ばれる大河のほとりに築かれ、川面にゆれる光が波紋のように広がって都を照らす。その周囲には国の要職にある者たちの屋敷が並び、対岸には庶民の住まいや商家がひしめいていた。夕刻の町は温かな灯に満ち、居酒屋の戸口からは笑い声と香ばしい煙が路地へ溢れ出している。
一行がゼーラーン卿の邸宅にたどり着いたのは、すでに日が暮れた後だった。雪に覆われた庭木の枝はランタンの灯りに照らされ、煌めく霜を散らしている。石造りの屋敷の窓には明かりがともり、温かな影が外へにじみ出していた。出迎えに現れた執事は、主の突然の帰宅に目を見張り、慌てふためいて屋敷の奥へ駆け込んだ。
「オーレリア様、旦那様がお帰りです」
「まあ……。お父様がこんな時間に? コンラッドやエディシュは?」
「坊っちゃんとお嬢さまもご一緒です」
オーレリアは肩にかけていた枯葉色のショールを頭にかぶり直し、雪の舞う玄関先へ歩み出た。外気に白く揺れる吐息の向こうに、馬から降り立った懐かしい家族の顔が並んでいる。
「どうされましたの? お帰りなら知らせてくだされば良かったのに……」
「済まぬ、オーレリア」
「お父様、何かありまして?」
蝋灯に照らされた父の顔は、以前よりも深い皺を刻んでいた。寒さのせいだけではない疲労の影が、その目元に重く垂れている。オーレリアは胸を締めつけられるように痛み、声を詰まらせた。
「母上。ただいま戻りました」
「お母様!」
「まあ、コンラッド、エディシュ……元気そうで良かったわ」
エディシュは母の胸に勢いよく飛び込み、コンラッドはそっと頬へ口づけをした。温もりを抱きしめたオーレリアの瞳に、涙がうっすらと浮かぶ。
「さあ、中へお入りなさい。簡単なものしか出来ませんけれど、何か食べるものを用意しますから。――あら、ディランは一緒じゃないの?」
家族の中にディランの姿が見えず、オーレリアは小さく首をかしげる。代わりに目に入ったのは、一人の少年。彼の腕に抱えられたクラリッツァは、オーレリアにとっても忘れ得ぬ人を思い出させる懐かしい楽器だった。
オーレリアは台所へ入り、固くなったパンを残り物のスープに浸して窯で焼かせた。四人分の食事とスプーンを並べ、家族を席につかせる。コンラッドは、ディランがエル・カルドに留まっていることだけを母に告げた。だが、ウィラード失踪の件を語ることは誰一人として口にできなかった。
食卓を囲んだ四人の間には沈黙が落ちた。事情を知らぬオーレリアは、子らの不安げな顔をディランの不在に結びつけ、柔らかく微笑んで言葉をかける。
「二人とも、そんなに心配することではないと思うのよ。私は、むしろあの子が今までエル・カルドと関わろうとしなかったことのほうが気がかりだったの。今回あちらで過ごすのは、お互いの溝を埋めるいい機会でしょう」
彼女はすっと目を細め、静かに言葉を継いだ。
「――その結果、あの子がエル・カルドに残ることになったとしても、受け入れてあげなければならないわ」
エディシュはスプーンを止め、母の顔をまっすぐに見つめた。
「とても親戚と楽しく過ごすって感じじゃなかったけど……。それに、帰って来ないかもしれないってこと? 帰るって言ってたのに」
「もしもの話よ。決めるのはあの子よ。コンラッド、あなたもわかった?」
コンラッドはわずかにうなずいた。
「オーレリア。儂とコンラッドは今から宮殿へ行く。馬車を用意してくれ。目立たぬように」
「かしこまりました」
オーレリアはすぐに執事を呼び、二人のために質素な馬車を用意させた。
やがて二人を送り出すと、オーレリアは食事を終えた娘と向かい合った。
「エディシュ。あなたにはこれからやることがたくさんあるのよ」
「やること?」
きょとんとした顔をする娘を、母は背筋を伸ばして見据えた。
「帰ってきたのなら、先方をお待たせしてはいけません」
「今……そんな気分じゃ……」
結婚前の顔合わせを促そうとする母の言葉に抗おうとしたが、通じる気配はなかった。
「気分で決めることではありません。ゼーラーン家の娘として責任を持ちなさい。明日から身の回りを整えます。あなたもそのつもりで」
「……はい」
小さな声で答えたエディシュの顔は、帝都へ戻った現実を悟り、しょんぼりと曇った。
オーレリアは、これまで黙っていた少年トーマへと視線を向け、柔らかに微笑んだ。
「あなたには、バルドが使っていた部屋を用意するわ。懐かしいわ……バルドは、私が子供の頃、冬になると必ず訪ねてきて、そのクラリッツァを弾いてくれたの。……いつの間にか、来なくなってしまったのだけれど」
語るうちに、オーレリアの顔には一瞬、少女のような表情が浮かんだ。
「でも、あなたのようなお弟子さんがいたのね。良かった……あの人も一人ではなかったのね」
彼女にとって吟遊詩人バルドは、冬を彩る存在だった。しかしその人は、必ず春になると屋敷を去って行ってしまうのだった。
――そしてバルドの訪れは、オーレリアの結婚とともに無くなっていた。
トーマは静かにうなずき、与えられた部屋へと入った。クラリッツァと荷物を戸棚に置くと、そこにはバルドの手によると思われる未完の愛の詩が、紙片のまま棚の隙間に挟まっていた。
少年は窓辺に立ち、夜空を仰ぐ。星々は凍えるような光を放ち、都の屋根の上に降り注いでいた。胸に去来するのは、エル・カルドでの出来事。ウィラードの手に触れた時の奇妙な感覚。聖剣の間で押し寄せた力の奔流――。
――あれは一体、何だったのだろう。
◇ ◇
ゼーラーン卿とコンラッドは、用意された質素な馬車に乗り込み、宮殿へ向かった。もしも将軍職にあるゼーラーン卿の急な帰還が知れ渡れば、ただ事ではないとすぐに噂が広まるだろう。そのため二人は、あえて粗末な馬車を選び、裏口に着けて使いを待った。
やがて側仕えの装いをした中年の男が現れ、灯火を手にして格子戸の錠を外す。錆びた鉄の擦れる音が夜気にひどく響き、二人の耳を打った。灯に導かれ、二人は暗く静まり返った宮殿の奥へと進む。衛兵の立つ扉の前で男が軽くノックし、重い扉が開かれた。
目に飛び込んだのは、まばゆい光――そして、そこに立つ人物であった。
「おかえり。二人とも、予定より早かったね」
光に照らされ姿を現したのは――ローダイン皇帝アルドリック、その人であった。




