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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第六章 結界の中で
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033 共通語《コムナ・リンガ》

 かつて、ある吟遊詩人はこう語った。

「エル・カルドの言葉は、大陸の古語によく似ている」


 それは、焚き火の爆ぜる音だけが響く夜だった。

杯をあおった詩人の口から、ふと零れ落ちた独り言。誰に向けるでもなく放たれたその声は、火の粉のように闇へと消えた。


 やがて、詩人は一つの仮説を立てる。

「かつて大陸全土で響き渡った、唯一の言葉があった。だが、結界に閉ざされたエル・カルドと、古帝国の版図はんととなった大陸とで、言葉はそれぞれ別の姿へと変じていった。時は流れ、大陸で"共通語(コムナ・リンガ)"と呼ばれるそれは、今もローダイン帝国の喉奥に息づいているのだ」


 焚き火の爆ぜる音に混じるその響きは、妙な真実味を帯びていた。

 学者たちは一笑に付したが、それでも――エル・カルドの古語と共通語の間には、分かちがたく響き合うものがあった。



 ◇◇◇



 夜が明け、東から射す光が、館を取り巻く霧を淡く透かしていた。

 フィオンが着替えを抱えて静かに客室を訪れると、扉の奥から空気を断つ鋭い音が響いた。


 息を呑み、音に導かれるように扉を押し開ける。

 そこではディランが、一心に剣を振るっていた。


 一瞬、調度品を壊すのではと肝を冷やしたが、すぐにそれが杞憂だと悟る。

 一つに束ねた長い黒髪。張りつめた弦のような背筋。腕が振り抜かれるたびに衣が鳴り、刀身が空気を裂く。霧に滲む朝光がその軌跡を追い、壁に走る影さえもが鋭く床を駆け抜けた。


 剣は野蛮なものだと教えられてきたフィオンの目に、その姿はただ、純粋に美しかった。

 胸の奥で脈が跳ね、呼吸の仕方を忘れるほどに。


 不意にディランが振り返り、その鋭い眼差しと視線がぶつかった。

 フィオンは慌てて姿勢を正し、腕の中の布を持ち直す。

「お目覚めでしたか。お召し物をお持ちしました」

「その前に、水を一杯くれるか」


 急いで用意した水を盆に載せ、差し出す。

 ディランは汗を拭いながらグラスを受け取り、それを外光にかざした。水面が光を撥ね、一滴の雫が彼の頬を滑り落ちる。その視線は、単に喉を潤すためではなく、水の透明度や出所を検分しているかのようだった。


「いい水だな。川の水か?」

「はい。どこの村も通っていない清流を引いております。……そのまま飲んでも差し支えありませんが、念のため濾過器を通しております」


 ディランは無言で頷くと、一気に水を飲み干した。その白い喉が動くのを、フィオンは眩しそうに見つめる。


「……これを館まで引いているのか」

「ええ、専用の水道を」

 

 ディランの瞳に、この館の立地と構造を測るような、軍人特有の冷徹な光が宿った。


 その間にフィオンは着替えを広げる。並べられたのは、昨日と同じ「第二聖家」の長衣だった。

「またこれか。ドナルのいない時くらい、いいんじゃないか?」

「申し訳ありません。ドナル様のご命令ですので」

「お前が謝ることじゃない。……『七聖家』らしく、か」


 袖に腕を通すたび、重なる布が肩に落ちた。


「長衣はお嫌いですか?」

「動きにくい」


 やがて、椅子に座ったディランの髪を、フィオンが解き始める。

 結び目が解けると同時に、黒髪が滝のように流れ落ちた。濡れた絹のごとく重く、光を吸い込みながら背を覆う。

 櫛を入れ、指先でほぐすと、黒い髪は細い光を孕みながら幾筋もの黒い流れとなって広がっていく。


(やはり、このお方こそ長衣を纏うにふさわしい)


 そう確信しながら、フィオンは鏡越しにその横顔を盗み見た。

 だが当の本人は、退屈そうに瞳を細め、窓の外の淡い光を見つめている。


「ディラン様のいらした所では、こうした服は着ないのですか?」

「ローダインでこれを着るのは、文官か年寄りだけだ」


 フィオンは目を丸くした。


「私は……言葉すらわからず、外の方と話したこともありませんでしたから」


「そういえば、ここの主人は共通語(コムナ・リンガ)を解さないのか?」

「はい。必要ない、と。……皆、そうです。エル・カルドの言葉以外は」


 フィオンは少し言い淀み、ディランの様子を伺った。


「ディラン様は……この言葉で話すのは、お嫌ですか?」

「嫌ではないが。……慣れないうちは、疲れる」


 ディランが立ち上がると、フィオンは洗面器に水を満たし、静かに台に置いた。


「では、私が……共通語を覚えます」


 静かな、だが芯に確かな硬度を宿した声だった。

 ディランは顔を上げ、濡れた肌を拭いながら眉を寄せる。


「どうやって?」


 フィオンは小さく喉を鳴らしたが、視線は逸らさなかった。


「……教えていただけませんか」


 いつもの控えめな彼とは違う、妙に確信に満ちた響き。


「私は構わない。だが、主人はどうする」


 一瞬の逡巡。フィオンは俯いたまま口ごもる。

 

「……内密に。ドナル様のいらっしゃらない時だけで結構です。たとえ、夜であっても」


 青ざめた顔でじっと見上げる瞳には、もはや余裕などひとかけらもない。


「私はいつでもいい。暇を持て余しているからな」


「ありがとうございます。……学んだら、ルーイやキアランにも教えて良いでしょうか?」

「好きにしろ。ただ、皆が動けばすぐに気づかれる」


 突き放すような物言いに、フィオンは屈託なく微笑んだ。


「大丈夫です。ドナル様の気性は、皆が熟知していますから」


 何気ない一言だった。

 だが、その響きはこの館の歪な支配をはっきりと物語っていた。


「……ならいい」

「ありがとうございます」


 洗面器を片付けるフィオンの背を見送りながら、ディランは静かに目を細めた。



 部屋を辞したフィオンの手のひらには、じっとりと冷や汗が滲んでいた。


『何か理由を作って、できるだけ側で見張りなさい』


 脳裏に蘇るドナルの声。だが、咄嗟に出た申し出は、ドナルの意に反するものであった。


『彼を逃さないように』


 フィオンは深く息を吐き、崩れそうになる膝を叱咤して背筋を伸ばした。

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