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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第六章 結界の中で
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034 館の結界 城外の館④

 その日、フィオンは小さな喜びを胸に秘めていた。

ドナルの帰宅が一日延びる――そう聞いただけで、胸の奥に光が差し込んだように思えたのだ。エル・カルドの政情は混乱を極め、ドナルは都で工作に追われているらしい。


 これで勉強ができる。


 フィオンは仕事の合間に、ディランが木の板に書き残した文字を指でなぞった。指先に刻まれた跡を確かめるように、一つ一つ声に出して読んでいく。

 自分が覚えると、今度はルーイとキアランに板を渡し、読み方を教えた。三人の目は真剣そのもので、覚える速度は驚くほど早かった。次第に板は増え、隠す場所にも困るほどになった。結局、それぞれの寝台の下に分けて隠すことで落ち着いたが、見つかれば罰は免れない。その緊張と隣り合わせの学びが、かえって彼らを熱中させていた。


 その様子を眺め、ディランはふと館の外へ出てみることにした。剣を帯び、マントを羽織り、指輪を文机の上に置いたまま。


 館を出ると、世界は白に呑まれていた。灰色の天蓋から舞い落ちる雪片は視界を曇らせ、沈黙が耳を塞ぐ。聞こえるのは、荒くなった自分の息と、雪を踏み砕くざくりという音だけだった。


 ディランは足跡を頼りに、ひたすら一方向へ歩いた。雪は膝に届きそうなほど積もり、裾が重く濡れて体温を奪う。

 振り返れば、館が背後に小さく霞み、白い地に自分の歩みが一本の線を描いている。


 その瞬間、不意に視界が揺らいだ。

 世界が紙を折り畳むようにたわみ、次に瞬きをしたときには、館がすぐ目の前にあった。


(戻された……?)


 ディランは再び同じ方向に足を踏み出した。やがて先ほどの足跡の途切れに達したとき、またも視界が歪む。目の前には新しい雪面――だが振り返れば、背後には既に館の石壁が迫っていた。


 何度試しても同じだ。

 左に逸れても、右に進んでも、結果は変わらない。


 雪に刻まれた足跡の列を見下ろしながら、ディランは眉を寄せた。

 逃げ場を奪われ、無駄足を踏まされている。だがただの遊戯ではない。見えぬ仕組みに絡め取られ、意志を縛られている――そう感じた瞬間、胸の奥を針金でかき乱されるような苛立ちが広がった。


 吐く息は白く濃くなり、指先の感覚は失われていった。手を握ろうとしても力が入らず、痺れが肘のあたりまで広がってくる。寒さが骨に食い込み、動けば動くほど体力が削られていく。


 やがて力なく踵を返し、重い足を引きずりながら館へ戻った。扉を開けた瞬間、熱気と共にフィオンが飛び込んできた。


「どこへ行かれていたんですか!」

「……散歩だ。心配するな」


 軽く答えたものの、声は掠れていた。紫色に染まった手を見て、フィオンは顔を青ざめさせる。


「そんな格好で……! すぐにお湯の用意をします」


 フィオンは小走りで桶を運び、震える手で湯を張った。布を敷き、声もなく促すように彼を座らせる。その動作の早さに、焦りと怯えがにじんでいた。

 足を浸した瞬間、凍りついた皮膚にじわじわと痛みが広がった。血が巡り始めた証拠だ。


 濡れた髪を布で拭かれる間、ディランはぼんやりと窓の外を見やった。

 雪はまだ降り続いている。

 白い世界はすぐそこにあるのに、踏み出す自由すら奪われている。


 やがて新しい衣服を着せられ、香辛料を浮かべた熱い葡萄酒が差し出された。湯気の向こうで、フィオンの目は必死にこちらを窺っている。


「明日にはドナル様が戻られます。……どうか、もうあのようなことは」


 恐れているのは自分への罰なのだろう。だが、その怯えが館そのものの息苦しさを象徴しているように思えた。


「これくらいは想定内だろう。外へ出られぬと確信しているから、ドナルは私をここに置いた。……満足するだろう」

「でも……」

「次は毛布でも被っていく。少しはましだろう」

「ディラン様!」


 鋭い声が部屋に響いた。廊下で耳を澄ませていたルーイとキアランが、驚いたように顔を覗かせる。フィオンは慌てて二人を宥めるように背中を撫で、「心配いらない」と囁いた。


 炎のぬくもりが壁に反射し、部屋を満たしている。けれどその温もりは慰めではなく、鉄鎖のように肌へ絡みつく。閉じ込められた者だけが知る重さだった。


 翌日。掃除と称し応接室に追いやられたディランは、退屈しのぎに部屋を見回していて、一つの「書」に目を止めた。

 麻布に黒い塗料で記された古い文字。木板に鋲で留められ、薄暗い壁に掛けられている。どこかで見たような――そう、聖剣の鞘に刻まれていたものに似ている気がした。


 じっと眺めていると、外から馬のいななきが響いた。館の空気がぴんと張り詰める。

 雪を蹴立てて停まったソリ。やがてドナルが館に入ると、足音が近づき、応接室の扉が開いた。


 ドナルはまっすぐ応接室に入り、ディランが立ち止まっていた「書」の前に歩み寄ると、隣に並んで同じように壁を見上げた。


「その書が気になるか?」


 耳朶を撫でるような低声が響いた。妙に柔らかく、それでいて冷えた刃の光を帯びている。

 ディランはちらりと横目をやり、問い返した。


「これは? 古い文字のようですが」

「古歌だよ。神々の言葉とも言われている。面白いから飾ってあるだけさ」


 ドナルの口調は軽い。しかし視線は書から逸れず、愉しみを噛みしめるようでもあった。


「古歌は口伝のみ――そう聞いていますが」

「ローダイン育ちの割にはよく知っているな。だが昔の誰かが、こうして残したのだろう。真偽は怪しいがね」


 言いながら、ドナルはゆっくりと身をずらし、ディランの背へと回り込んだ。

 気づいた時には、重たい手が両肩に置かれていた。ぞくりとするほど近い息遣いが、耳元をかすめる。


「……これを研究していた人間がいてね」

 声は甘く低い。だが聞く者を従わせようとする圧が滲んでいた。

「君がそれほど興味を示すなら――会わせてやってもいい。この館の地下に、いるんだよ」


 血が沸き立つような反発が胸を打った。


「大人しくしているなら……な」


 ディランは眉間に皺を刻み、押し返すように肩を強張らせた。その抵抗を愉しむかのように、ドナルはゆるく笑い、あえて獲物を逃がす狩人の仕草で手を離した。


 ドナルは館での用事を済ませると、またエル・カルドへ帰って行った。


 館に再び落ち着きが戻ると、子どもたちは隠していた板を取り出し、勉強を再開した。秘密の熱気が部屋に満ちる。ディランはその様子を横目に見ながら、再び結界の調査に向かう。


 川から引かれたという水路。木樋の蓋に手を当てれば、冷たい流れが確かに伝わってくる。だが、たどっていっても結果は同じ。視界が歪み、気づけば館の近くに戻されていた。


 ――出られない。


 戻ると、フィオンがすでに湯桶を用意していた。今回は咎める言葉も少なく、ただ「凍傷になりますよ」と穏やかに注意するだけだった。


 葡萄酒を飲み干し、口に残る香辛料のざらつきを感じながら、ディランは思う。


 地下には、誰かがいる。

 そして、この館にいる限り、ドナルの気まぐれに縛られ続けるのだと。


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