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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第三章 エル・カルドへ
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020 雪の墓標

 翌朝早く、エディシュはシルヴァの家を訪れていた。

 夜のあいだに降った雪が路地を薄く覆い、朝日を浴びて白銀の粒が舞い上がるようにきらめいている。吐く息は白い靄となり、耳の奥がじんじんと痛んだ。冷気は骨の芯まで沁み込み、胸を締めつける。


「どうしたんだ? こんなに早く」


 軋む音とともに玄関の戸が開き、シルヴァが姿を現した。髪は寝癖に跳ね、肩にかけた毛布がずり落ちそうになっている。あくびを隠そうともせず、気だるげに階段を降りてくる。


「ごめんね。でも後になると、あんたは〈聖剣の儀〉で忙しくなると思って。あたし、行きたい所があるの」


 真剣な眼差しに、シルヴァは小さく「ああ」と声をもらす。


「わかった。ちょっと待っていてくれ。着替えてくる」


 奥に消えた彼が戻ってきた時には、厚手の外套に身を包み、手には葡萄酒の瓶を忍ばせた布袋を提げていた。


「コンラッドはいいのか?」

「お兄ちゃんは……忙しそうだったから」


 エディシュは唇を噛み、わずかに残念そうな顔を見せる。


「そうか……また明日でも行けるしな」


 城内の馬屋に足を踏み入れると、藁と獣の籠った匂いが鼻を突いた。湿った床からはぬるい蒸気が立ち上り、馬たちが荒い鼻息を吐く。蹄が床を鳴らし、朝の静けさを細かく震わせていた。

 シルヴァは自分の馬を引き出し、慣れた手つきで二人乗り用の鞍を取り付ける。


「ちょっと待って。あたし、自分の馬があるわよ」

「知ってるけど、その格好で馬に跨るのか?」


 彼の視線が、エディシュの白い長衣を射抜いた。

 裾が翻れば膝まで露わになる。上流階級の女性にとって、それは致命的な恥。足首より上を晒すなど、決して許されなかった。

 一方で帝都では胸元や肩を大きく露出したドレスが流行している――エディシュにはその矛盾が理不尽でならない。


「馬に乗るってわかってたら、着替えてきたのに」


 シルヴァは苦笑し、布袋を鞍に括りつけると、踏み台から軽やかに馬へ跨った。

 エディシュも意を決して腰を上げ、シルヴァのベルトを握りしめて横乗りする。だが馬が一歩踏み出した瞬間、体が大きく揺さぶられ、喉から叫びが漏れた。


「こ、怖い! 世の中の女性は、みんなこんな怖い思いをして馬に乗せられているわけ? 自分で乗った方が絶対いいわ」


 シルヴァが心配そうに振り返る。


「後ろは跳ねるからな。前に乗るか?」

「いいわよ。子供じゃあるまいし。すぐに慣れてやる」


 エディシュは意地になって体勢を整える。

 子供の頃から馬に一人で乗ってきたのだ。横乗りごときで怯む自分を認めたくなかった。


「でも、ローダインへ帰ったらこの乗り方じゃないのか?」

「ううん。帝都では基本、馬車。女一人で馬に乗っていたら何を言われるか。お兄ちゃんやおじいちゃんと一緒だと、何も言われないけどね」


「結構厳しいんだな。ローダインはもっと自由かと思っていた」


 二人は馬屋の暗がりを抜け、跳ね橋を越えた。

 冷たい風が頬を刺し、まだ眠りに沈む街路を蹄の音だけが切り裂いていく。


「子供の頃は、大人になれば何でもできると思ってた。でも実際は違った。大人になればなるほど、出来ない事が増えていった。帝都は特にそうなのかも。ここでもそう?」


「どうだろうな。馬に関しちゃ、馬を持ってる奴も少ねえし、乗れる奴も限られてる。誰が乗ってても気にしないだろう。他のことは、俺にもよくわからない」


 馬は町外れへ向かい、雪に縁取られた木立を抜ける。枝の隙間から射す光は弱く、音は吸い込まれたように消えていた。

 やがて木の柵に囲まれた広い墓地が姿を現す。雪を薄くまとった石碑が整然と並び、朝の光に鈍い輝きを返す。小鳥が枝を渡り歩き、羽音が沈黙に重なった。


「それで詠唱は、ちゃんと憶えたの?」

「ああ、バッチリ憶えた。トーマに憶え方まで教わった」


 エディシュは鼻をひくつかせた。


「あんな年下の子に教わらなきゃならないなんて……。ちょっとは恥ずかしいとか思ってんの?」


「なんでだよ。人にものを教わるのに、年上も年下もないだろう。恥ずかしいなんて思ったことねえよ」


 本気で不思議そうに返すシルヴァ。その顔には一点の迷いもない。


「トーマは?」

「まだ寝てる。夕べ遅くまで付き合わせちまった」


 雪に反射する木漏れ日が小径を照らし、墓地の空気を淡く彩った。


「着いたぞ」


 灰色のひときわ大きな石碑には、人々の名前がびっしりと刻まれている。


「ここだ。あの時の流行り病で亡くなった人、全員ここに書かれている」

「へえ、立派なんだ。お花、持ってきたかったけど、この時期ないわね」

「代わりに、これ」


 シルヴァは葡萄酒の瓶を取り出し、コルクを抜いた。赤紫の液体が石碑に注がれ、染みを広げていく。すでに幾度も注がれてきたのだろう、石面は紫に濡れ、ほのかに果実の匂いを放った。


「お父様、お酒飲めたのかな? 知らないや。シルヴァは亡くなったお母様のこと覚えてる?」

「なんとなくだな。でも、酒が飲めたかどうかは覚えてないな」


「――あたしのお父様は、あたしが生まれてすぐにエル・カルドへ行ったから……全然覚えてない。お母様の話では、生まれたばっかりのあたしを抱いて『エル・カルドには病気で苦しんでる子がたくさんいるから行ってくる』って泣いてたって」


 それは母から幾度も聞かされた話だった。

 エディシュは自分に言い聞かせるように呟く。


「俺もそのうちの一人だった。優しい親父さんだな」


「でも、子供なら誰でもかかるような病気なのに、なんでそんなに流行ったんだろう」

「俺もこの時かかったけど、子供はすぐ治ってた。年寄りはほぼ全滅だ。エル・カルド中、大混乱だったそうだ」

「そりゃ、そうよね」


「ローダイン人が病気をばら撒いたとか、悪魔だとか……暴動寸前だったらしい。その時、ゼーラーン将軍の娘婿が同じ病気で亡くなって、ようやくローダイン人も同じ人間だとわかったって……親父が言ってた」


「じゃあお父様も、まんざら無駄死にでもなかったのね」


 エディシュは寂しげに笑みを浮かべる。


「無駄死にどころか大恩人だろ。暴動でも起きてたら、もっと人が死んでた」


 〈ブルーノ・ゼーラーン〉――父の名を見つけ、シルヴァが指を伸ばす。

 エディシュはその文字を震える指でなぞり、額を押し当てた。石の冷たさが血を凍らせるのに、胸の奥では火が燃えるように熱が立ちのぼる。冷たさと熱がせめぎ合い、呼吸が詰まった。


「――うん。そうだね」


 目を閉じ、膝を折り、ただじっと座り込む。

 シルヴァは背を向け、雪枝を飛び交う小鳥を眺めていた。しばらくしてエディシュは立ち上がり、彼の隣に並ぶ。二人は無言のまま、小鳥の姿を追った。


「ここへ来るのも、今日が最初で最後かな」

「なんでだ? また来ればいいじゃないか」


 シルヴァの言葉に、エディシュの胸が苛立ちでざわついた。


「あのね。結婚したら、そんな簡単に遠出できないでしょう?」

「親父さんの墓参りに文句言うような旦那だったらやめとけよ」


 エディシュは返す言葉を失った。沈黙を埋めるように、枝から雪がはらりと落ち、陽光を受けて散った。小鳥の声だけが残り、言葉は胸に沈んだままだった。


「旦那になる人が良くても、お姑さんに文句言われそうだわ。それにね、お墓自体はローダインにもあるのよ」


 その時、背後から子供の声と足音が近づいた。振り返ると、十歳ほどの少女とさらに幼い妹らしき子が掃除道具を抱えてやってくる。

 少女たちは二人に気づき、驚いたように立ちすくんだ。シルヴァが外套の下からエンジ色の服を見せ、何事か声をかけると、子らの顔はぱっと明るくなり、ころころと笑い声を弾ませた。


「知ってる子?」


 エディシュは愛しげにその笑顔を見やる。頬は寒さで赤く、笑いは雪の上を転がるように響いた。


「ああ、この近くの孤児院の子たちだ。ここの掃除をしてくれている。久しぶりで顔を忘れられてた」

「孤児院……」


 エディシュの顔に影が落ちる。


「ああ。それも、お前の親父さんが作ろうとしていたらしい。大人が次々と倒れて、子供だけが残されていくのを見てな」


 少女たちはシルヴァの袖を引き、真剣な顔で何かを訴えた。

 シルヴァは腰を屈め、耳を傾け、二人の頭を撫でる。微笑みが朝の光を弾き、声は柔らかく沈んでいた。安心したのか、少女たちは掃除道具を抱えて奥へと去っていく。


「どうかしたの?」

「ああ、ちょっと……。孤児院から七聖家に働きに出た子が、連絡してこなくなったって。――まあ、忙しいから忘れてるだけだろうけど、一応親父の耳には入れとくか」


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