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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第三章 エル・カルドへ
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017 詠唱と古歌

 着替えを終えた五人は、城内の食堂でゼーラーン卿とコンラッドの帰還を待っていた。

 

 太い(はり)に守られた食堂は、白壁に蝋燭の影をゆらゆらと漂わせている。微かな灯心の匂いが鼻をくすぐり、中央の長卓は歳月に磨かれた鈍い光を帯びて、そこに堂々と鎮座していた。

 

 厚いガラスの嵌まった窓は重厚なカーテンに閉ざされ、外の冷気を固く拒んでいる。外には雪の気配があるというのに、ここだけは柔らかな温もりに満ち、吐息さえ静かに溶け込んでいくようだった。

 

 その静寂を破り、不意に大きな音を立てて扉が開く。

 現れたのは、自宅へ戻ったはずのシルヴァだった。その顔は死人のように青ざめ、額には嫌な汗が光っている。喉を荒く上下させているが、服装だけは不自然なほど整えられていた。第六聖家の色を帯びたチュニックが、かえって彼の蒼白を痛々しく際立たせている。


「なんだ、ここは楽しそうだな。……俺も泊まっていこうかな」


「何を言ってるのよ。あんたはさっさと家に帰りなさい……って、ちょっと、どうしたの? 顔色が最悪じゃない」


 エディシュは呆れた声を上げながらも、弾かれたように彼へ歩み寄った。

 シルヴァは何かを言いかけ、躊躇い、その沈黙が重く引き伸ばされた。いつもの楽観的な色が瞳から消え去り、最後には、絞り出すような声で呟いた。


「……忘れてた」


 一瞬、時が止まる。誰もが互いの顔を見合わせ、重苦しい沈黙が場を支配した。


「忘れてたって、何を?」


 エディシュの声が、不安にわずか震える。


「……詠唱だ。〈聖剣の儀〉で唱える、あの文句だよ」


 広間の空気が、さらに一段階冷えたように凍りついた。蝋燭の火が細く揺れる。シルヴァの肩は、情けないほど小刻みに震えていた。


「前回は覚えるのに五日かかったんだ。それなのに、今度は一日しかない。……何のために早く帰ったのか、すっかり忘れてた。お前らを迎えに行ってる場合じゃなかったんだ……!」


 力なく吐き出された言葉の影が、壁に力なく揺れている。


「……一度覚えたなら、口を動かせば思い出せるんじゃない?」


「それが、無理なんだ。全く意味のわからん言葉の羅列で、……記憶からまるっきり抜け落ちてる」


「書き付けはないの?」


 問いかけに、シルヴァは乾いた笑みを浮かべて首を振る。


「口伝だ。文字に残すことすら禁じられている」


 事情の深刻さに、エディシュは苛立ちを隠せず声を荒らげた。


「じゃあ、今すぐ誰かに教わってきなさいよ! ここでうろたえてても始まらないでしょ」


「さっきまで教わってたんだ! でも『七聖家の会合があるから帰れ』って追い出されたんだよ。……明日までに覚えられる気がしない」


 絶望に打ちひしがれたまま、彼は壁に背を預けてずるずると座り込んだ。両手で頭を抱える彼の、乱れた呼吸だけが室内に響く。


「そんなこと言われても……ディラン、何か心当たりはない?」


 ディランは窓際に座ったまま、視線を暗いカーテンへ向けていた。その背中からは、拒絶するような冷たい空気が立ち上っている。


「……いや。適当に口だけ動かしておけばいいだろう」


 言葉とともに、彼はゆっくりと振り返った。その瞳には、シルヴァを見下ろすような凍てついた色が宿っていた。シルヴァは跳ねるように顔を上げ、声を震わせた。


「よくそんなことが言えるな……! 俺のせいで殿下の儀式が失敗したら、どうするんだ」


「お前の詠唱ごときに、そこまでの力があるのか? 所詮は形だけの儀式だろう」


 氷のような声が突き刺さり、シルヴァは目を見開いて絶句した。


「無責任なことを言うな。……もし失敗したら、どうするんだ」


「――無責任なのは、準備を怠り、覚えきれなかったお前の方だ」


 その一言が決定打となり、シルヴァは呻き声を漏らして肩を落とした。


「ああもう! あんたたち、うるさいわね!」


 エディシュの叫びが、張り詰めた空気を強引に切り裂く。彼女の双眸には、ウィラード殿下への忠義ゆえの焦燥と、友人であるシルヴァへの苛立ちが混在していた。


 ディランは無言でカーテンを引き、再び外の闇へと顔を背けた。


「結局はシルヴァが覚えれば済む話じゃない。なんでそんなに覚えられないのよ。たかが数節でしょ」


 エディシュの言葉は峻烈だった。もし剣に選ばれなければ、ウィラードは帝国へと送り返されてしまう。その重圧が、彼女に容赦のない言葉を選ばせていた。

 シルヴァは恨めしげに、呻くように答える。


「お前ら、何も知らないからそんなことが言えるんだ……」


「じゃあ、試しにやってみなさいよ。どんなものか聞いてあげるから」


 促され、シルヴァはおずおずと唇を開き、一節を唱え始めた。


 それは、耳に馴染まぬ異質な響きだった。大陸のどの国の言葉でもない、ひどく寒々しい響きが室内の空気を物理的に締めつける。


 唱え終えた後も、奇妙な沈黙が残った。誰も理解が及ばない中、耳に残る異質な残響だけが場を支配している。蝋燭の蝋が垂れる音だけが、非情に時を刻んでいた。


「……ごめん、シルヴァ。舐めてたわ。これ、よく前回覚えられたわね」


「だろ? しかもこれが、あと十節もあるんだ……」


 涙に滲む目で、シルヴァは掠れた声を返す。

 その背後で、トーマがクラリッツァを膝に抱いたまま、ためらいがちに口を開いた。


「あの、シルヴァさん……もしかして、その詠唱ってこんな感じですか?」


 灯火の揺れを背に、トーマは記憶の深層からひとつの旋律を引き上げた。変声期特有の不安定な声。けれどそれは、驚くほど澄んだ調べとなって古歌を紡ぎ出した。


「……トーマ、お前、これは……」


 シルヴァは自分の耳を疑った。旋律こそ違えど、紡がれた言葉は紛れもなく〈聖剣の儀〉の詠唱そのものだった。


「すみません、これ以上は声が……。これは古歌のひとつなんです。師匠に教わりました」


 歌が止んでも、その余韻が甘く広間を満たしていた。


「へえ……古歌。大陸の古語とも違うの?」


 エディシュの声が余韻を割り、皆の意識を現実へ引き戻す。


「古歌はさらに古い時代のものだと聞いています。『神の言葉』だと称する人もいますね」


 トーマの脳裏に、今は亡き師の穏やかな声が蘇る。その一言が落ちたとき、広間の空気は一瞬、神聖な静寂に包まれた。


「文字に記すことは禁忌だと教わりました。……実際、どんな文字で書くのかさえ私は知りませんが」


「……トーマ。お前は神か。よし、飯のあと俺の家に来てくれ、全部教えてくれ。なんなら泊まっていけ!」


 シルヴァの顔に一気に生気が戻った。


「いいんですか? でも……」


「気にするな。家には俺と親父しかいない。――よし、俺も一旦飯を食いに帰る。家は端から二番目だ、待ってるからな!」


 嵐のような騒がしさを残して、彼は軽やかに去っていった。


「……落ち着きのない奴だ」


 ディランは呆れたように肩を落とし、エディシュは感銘を受けた様子でトーマを見つめた。


「トーマを連れてきて正解だったわね。本当にすごいのね、あんた」


 その賞賛に、トーマの胸には誇らしさと、割り切れない後ろめたさが入り混じった。


 詠唱の残響が胸に燻るなか、廊下の向こうから足音が近づいてきた。ゼーラーン卿とコンラッドが、扉を押し開いて戻ってくる。


 通訳のミッダが夕食の支度が整ったことを告げ、ジルとニケは遠慮して使用人用の食堂へ移ろうとした。だが、コンラッドに強く促され、二人は気圧されるように客席へ腰を下ろす。


(……これ、絶対に食った気がしないやつだ)


 ジルは心の中で悲鳴を上げ、隣に座るトーマを盗み見た。

 トーマは、背筋をすっと伸ばしたまま、至極自然に椅子へ腰を下ろしている。灰色の制服を纏った給仕たちが、音もなく皿と銀器を並べていく。背後から常に監視されているような、独特の圧迫感。


 ずらりと並んだ銀の食器にジルの胃は縮み上がり、ニケも無意識に背を丸めた。


 だが、トーマは違った。

 吟遊詩人として高貴な場に同席した経験が豊富なのか、彼は落ち着き払っている。さじを手に取る仕草ひとつとっても無駄がなく、洗練されていた。――これこそが師による教育の賜物なのだろうか。


 自分と彼との決定的な「差」をまざまざと見せつけられ、ジルの胸に驚きと戸惑いが走る。こんな年下の少年が、城の高貴な食卓にこれほど自然に馴染んでいく。その光景は、ジルの想像をはるかに超えていた。


「明日からは、ローダインの人間が料理も給仕もするから」


 コンラッドがそっと耳打ちする。その一言で、ジルはようやく強張っていた身体を緩め、匙を動かすことができた。


 熱いスープが喉を滑り落ちていく。味を堪能する余裕などなかったが、張り詰めていた胸の痛みは、ほんの少しだけ和らぎ、温もりに変わっていった。

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