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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第三章 エル・カルドへ
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018 邂逅

 食事が済むと、トーマは一人、クラリッツァを抱えて城の外へ出た。

 扉を抜けた途端、頬にひやりと冷気が触れる。いつの間にか雪が降り出しており、木々の枝や石畳は綿を散らしたように白く覆われている。吐く息はすぐに白くほどけ、夜の闇に溶けていった。


 かつてトーマは師バルドと共に大陸の各地を旅した。だが、このエル・カルドの地を踏むことは一度もなかった。


『ここの人は、外の世界の人を怖がるからね』


 いつもそう言って、バルドは必ずこの国を素通りした。

 それでもトーマは、胸の奥で密かに願い続けていた。


『いつか、行きたい』


 だから今、この雪を踏んでいる自分に、奇妙な昂ぶりを覚える。

 伝説の国に来たんだ――。


 クラリッツァを濡らさぬよう、トーマは肩から外套を広げて覆いかぶせた。細い指先はかじかんで感覚が鈍く、息を吹きかけて温める。この寒さも、降り続く雪も、胸の熱の奔流を冷やすことはできなかった。


 しんしんと降り積もる雪の下、城の背面をぐるりと七つの邸宅が取り囲んでいる。窓には灯りがともっているのに、物音一つしない。耳の奥まで沁み入るような静けさだけが支配していた。


 ふと、シルヴァが言った「二番目の家」が右からなのか左からなのか、聞き漏らしていたことに気づく。聞き直しに戻ろうか迷っていたそのとき、どこからともなく柔らかなクラリッツァの音が響いてきた。


 (どこだ……?)


 耳が導かれるのに、時間はかからなかった。一番城に近い邸宅の二階、温かな灯りのもれる窓から子守歌が流れてくる。大陸に古くから伝わる旋律――地方ごとに伴奏も節回しも違い、吟遊詩人にとっては腕の試される曲だ。


(眠れ、眠れ、森の中で……目覚めるのは、時の彼方……)


 頭の中で歌詞をなぞりながら、トーマは息で指を温め、クラリッツァを抱え直す。そして静かに、その旋律へ音を重ねた。師と共に弾いた遠い日々が甦り、懐かしさが胸を押し上げる。


 こちらの音色に気づいたのか、やがて相手の演奏が途切れた。だが、トーマが弾き続けると、再び音が重なる。まるで二人でひとつの楽譜を知っているかのように息が合った。不思議なほどに、相手の指の動きが手に取るように分かる。


 雪空に吸い込まれていく音色と共に、自らの身体までもが宙に溶けていく錯覚に包まれる。永遠にこの時が続けばいい――そう願ったが、旋律の終わりと共に心地よい時間も幕を閉じた。


 トーマは窓を仰ぐ。軋む音とともに硝子窓が開かれ、灯りを手にした少年が現れる。灯火に照らされたのは、月光のようなプラチナブロンドの髪だった。


「君は、誰?」


 共通語コムナ・リンガで投げられた問いに、トーマは胸に手を当てて名乗った。


「僕……いえ、私はバルドの弟子でトーマと申します。ゼーラーン卿に随行している楽士です」


「バルドの? そう。凄いね。ちょっと待ってて。そっちへ行くから」


 慌ててトーマは首を振る。


「いえ、私が伺います」


 肩のクラリッツァを背に回し、壁を這う蔦にかじかむ指をかける。一瞬、シルヴァのことを思い逡巡したが、わき起こる好奇心には勝てなかった。冷たい石の感触と、雪に濡れた蔦の滑りやすさに神経を尖らせながら、身軽に二階へ登る。


 窓枠を跨いで転がり込むと、少年の手が差し伸べられた。見上げると、孔雀色の瞳。エル・カルドの人に違いない。トーマはその手に自分の手を重ねた。


 触れた瞬間、空気が変わった。

 音もなく、景色もなく、ただ温かな力に包まれて宙に浮かぶような感覚。互いの視線が驚愕に絡み、次いでまばゆい光が爆ぜて二人を貫く。目を閉じ、呼吸を止めた。次に意識を戻した時には、足はきちんと床に着いていた。


 少年は灯りを掲げ、静かに告げる。


「僕はウィラード。ローダイン皇弟サディアスと、エル・カルド第一聖家アラナの子だよ」


 その言葉に、トーマの身体は緊張に固まった。


「ウィラード皇弟子殿下……これは、失礼いたしました」


 慌てて手を放し、深々と頭を垂れる。先刻、城でひざまずいた際は顔をよく見られなかったが、今ようやく少年の輪郭が目に焼きつく。


 共通語で声をかけられた理由も腑に落ちた。エル・カルドの民ならば、こんな不躾な行動は決してとらないだろう。己の無作法を思い返し、トーマは思わず瞼を閉じて身を固くする。


「そんな、かしこまらなくていいよ。ここは僕の自室だ。誰も見ていないから」


 ウィラードの声音は柔らかかった。


「でも……」


「そのクラリッツァを見せてくれる? それはバルドのもの?」


「はい。師匠が使っていたものです」


 透かし彫りを施した胴に、六コースの弦を張った楽器。バルドはいつも簡素な造りを好んだ。


「いい音だね」


 ウィラードは爪弾き、微笑む。


「いえ、殿下のクラリッツァこそ……つい一緒に弾いてしまって、申し訳ありません」


「いいよ。僕も楽しかった。あんなに音の合う演奏は初めてだった」


 その言葉に、トーマの胸が温かくなる。


「私もです。殿下はどちらで?」


「最初は宮廷楽士に習った。でも、ここに来てからは自己流だよ」


 クラリッツァを返され、指先にその重みが戻った。


「それで、あんな音が……凄い。私は師匠にずっとついてやっとこれです」


 短い沈黙。ウィラードの瞳に影が射す。


「……吟遊詩人の仕事は、楽しい?」


 問いはあまりに真っ直ぐで、トーマの胸に深く突き刺さった。

 楽しいから続けているわけではない。生きるため、食べるため。自分にはこの道しかなかった。


 頭の奥にバルドとの旅が甦る。

 飢えを抱え歩き続けた日、酔客に罵声を浴びせられた夜。だが、師の奏でた音が誰かの涙を誘い、笑顔を生んだ瞬間も知っている。

 答えを選びかね、言葉が喉で凍りついた。


「楽しいというか……なかなか厄介な仕事です。この弦は羊の腸で出来ていて、高価なくせに切れやすい。たくさん弾けばすぐ切れるし、弾かねば稼げないし……」


 そのとき、扉の外から声がした。


「殿下。話し声がしますが、どなたか……?」


 二人の間に緊張が走る。ウィラードはすぐに扉へ歩み寄り、低く返事をした。


「違うよ、クラウス。緊張をほぐそうと思って声を出してただけ」

「そうですか。では早めにお休み下さい」

「わかった、ありがとう。もう寝るよ」


 扉の外が静まったとき、振り返ったウィラードの視線は空を切った。トーマの姿はもう窓の下にある。


「すみません、シルヴァさんの家はどちらでしょうか?」


 雪にかき消されぬよう、ぎりぎりの声で問う。


「向こうから二番目」


 指さす手の先を見て、トーマは深々と礼をし、白い闇の中へ駆けていった。絶えず降り続ける雪が、その背をすぐに呑み込む。


「トーマ……また、会えるかな」


 ウィラードは小さくつぶやき、窓を閉じた。


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