180 宵の文書庫
エディシュとウィンが宮殿に到着したのは、宵の帳が降りたころだった。
手に蝋燭を掲げ、静寂に包まれた文書庫へと足を進める。
「わぁ、広いね……!」
ウィンの声が反響し、無人の廊下に軽やかに響いた。
エディシュは苦笑しつつ、衛兵から預かった鍵をきゅっと握る。
文書庫のある建物にたどり着くと、そこはすっかり眠りについていた。窓に灯はなく、人の気配も感じられない。
「誰もいないね。やっぱり、街にでも行ったのかな」
踵を返そうとするエディシュをよそに、ウィンは興味津々と奥へ進んでいく。
「ちょっと、勝手に開けちゃだめよ!」
「平気だって、誰もいないし」
そう言いながら、並ぶ扉をひとつひとつ開けていく。やがて、施錠された一角にたどり着いた。
「ここは?」
「閲覧室よ。普段は鍵がかかってるの」
エディシュは鍵束を探り、慎重にひとつずつ鍵を試した。そして一番奥の扉を開いた時、椅子の影の不自然な形――
「……お兄ちゃん!」
狭い部屋の椅子に、コンラッドがぐったりともたれかかっていた。
「お兄ちゃん! ねえ、しっかりして!」
駆け寄り、肩を揺さぶるも反応はない。身体に掛けられていたマントがするりと落ちる。
エディシュの胸に、氷のような冷たさが走る。
「ウィン、人を呼んでくる! ここで見てて!」
「う、うん!」
蝋燭を机に置き、ドレスの裾をたくし上げてエディシュは駆け出した。
(争った形跡はない。どうして? ……まさか、悪い病気?)
不安が渦巻く中、ようやく廊下で警備兵を見つけ、助けを求める。すぐに数人の兵士が現れ、コンラッドは救護室へと運ばれた。
現れた医師は、背の高い若者だった。栗色の髪を一つに束ね、穏やかな目元をしている。
「オットー先生じゃないの?」
「あー、先生は今、エル・カルドに滞在中です。私は代診のラドと申します」
落ち着いた声で答えると、ラドは衝立てを置き、迅速に診察を始めた。
エディシュは、そっとその場を離れる。
「先生は、クラウスさんと一緒に行ったのね……」
エディシュとウィンは椅子に腰掛け、静かに待つ。衝立ての端から影が伸びる。
やがてラドが顔を出した。
「外傷は見られません。病気の兆候もありません。ただ……口元から、かすかに青芥子の香りがします」
「青芥子? でも、部屋には何も……」
「そうですか。まあ、命に別状はありませんが、あれは結構後に残りますよ」
医師はくしゃくしゃと頭を掻いた。
エディシュはラドの前に歩を進める。
「目は覚めるんですか?」
「まあ、いずれは。ご存知かも知れませんが、回復には時間がかかります。倦怠感も続くでしょう。元気をつけるなら、栄養のあるものを与えてみては?」
まるで、それ以上は手立てがないと言わんばかりの調子だった。
◇◇◇
その夜、エディシュは衛兵に頼み、兄を馬車で家へ運ばせた。
すでにウィンは眠ってしまい、ふたりは別々の寝室へ運ばれる。
エディシュは兄の寝顔を見つめ、ようやく肩の力を抜いた。
――そのとき、扉がノックされた。
「コンラッド? 戻ったの?」
声の主はオーレリアだった。心配そうに扉を開けかけるのを、エディシュは慌てて遮った。
「お母様、大丈夫。お兄ちゃんは疲れて寝てるだけだから」
「そう? あの子、挨拶もせずに……」
「忙しかったもの。今日くらいは、ね」
「……そうね。明日はヒューゴと先に会場へ行くけど、大丈夫かしら?」
「ええ、大丈夫です。ご心配なく」
オーレリアが立ち去ると、エディシュは兄の枕元の椅子にへたり込んだ。足元から、じんわりと疲労が這い上がってくる。
そのまま、うとうとと眠りに落ちた。
◇◇◇
「おはよー!」
ウィンの声で目覚めたときには、朝の光が部屋を満たしていた。
「お兄ちゃん、起きて! 今日は建国祭よ!」
エディシュに揺さぶられ、コンラッドのまぶたがわずかに開いた。
「……ここ、家……?」
「そう。お医者様が言ってたの。誰かに薬を飲まされたみたいだって」
「薬……」
レオナの面影が脳裏をかすめたが、名を口にすることはなかった。
「動けそう?」
体を起こそうとするが、全身に鉛のような重さが残る。
「……すぐには、ちょっと……」
「じゃあ、待ってて!」
エディシュは勢いよく部屋を飛び出し、レシピの紙片を手に台所へ駆け込んだ。
それは先日、宿代代わりにシルヴァがくれた“秘伝の回復飲料”のレシピだった。
『疲れがとれるぞ』
彼は自分が飲むつもりで材料を持ち込んでいた。結局、飲まずに出て行ったが……。
材料:矢車菊、チャイブ、大蒜、牛の生肝――他にも聞き慣れない材料が並ぶ。
「牛の生肝って! ……さすがに無いよね」
シルヴァが置いていった、あり合わせの材料を刻み、潰し、今朝届いたばかりの牛乳に混ぜる。
できあがった液体は、紫と緑がぶつぶつと混ざった、なんとも怪しい色合いだった。
「……それ、まさか」
ベッドに横たわるコンラッドが、顔をひきつらせる。
「シルヴァの秘伝の飲み物! ディランに飲ませようとして、調理場出禁になったやつ!」
「……やっぱり、それか」
ウィンはポカンと口を開けたまま、怪しげな液体を見つめていた。
エディシュは、コンラッドの鼻先にグラスを突きつける。
「うん! でも、私が作ったから大丈夫!」
「いや、それは……」
「その状態で剣闘会に出るつもり?!」
勢いに押され、コンラッドはしぶしぶグラスを受け取った。
目をつむり、一気に喉へ流し込むと、猛烈な大蒜の匂いが口に残る。胃には強烈な異物感。……が、しばらくすると、体の芯がじんわりと温まり、手足が少しずつ動くようになってきた。
よろめきながら、コンラッドは剣と鎧箱を抱えて馬車へ乗る。
見送るエディシュは、ようやく胸を撫で下ろした。
さて、自分の支度を――と水盤に手を伸ばした瞬間。
指先から、凄まじい大蒜の匂いが立ちのぼる。
「しまった……今日はエイリーク様との顔合わせだった……」
鏡に映った自分の顔を見つめ、エディシュはそっとため息をついた。
次回、第181話 「祝祭のはじまり」 1月13日(火)19:15更新予定




