011 トーマの仕事
トーマは、ディランから兜を受け取った。続いて籠手、胸当てと、金属の冷たい重みが次々に腕にのしかかる。それらを床に敷いた布の上に静かに並べていくたび、甲冑に染みついた鉄と血の匂いが、かすかに鼻先を刺した。いくら拭ってあっても、戦場の気配は衣の奥深くまで染み込み、消えはしない。
装備を全て外し終えると、ディランは水桶に身をかがめ、手と顔をざぶりと洗った。水が木の器を叩く音が部屋にこだまし、飛び散った雫が床に散った。滴が首筋から胸へとすべり落ちる。白布を受け取ってそれを拭き取った後、トーマは預かっていた指輪をそっと差し出した。
銀の輪が左手の小指に収まると、孔雀色の石が淡く光を返した。揺らめく燭火を映し込みながら、まるで脈を打つかのように微かに煌めく。その石──『孔雀石』は、かつて七聖家の人間だけが身に着けることを許されたものだと、トーマは師匠から聞かされていた。
エル・カルドの人々にとって、それは魔道の象徴。その指輪はまた、ディランの母セクアの形見でもあるのだと、コンラッドから教わったこともある。
だが、形見という割には扱いが粗雑だった。戦に出るときはいつも机の上に放り出し、気にも留めない。無くしてはいけないと見かねて、トーマが預かるようになったのだ。
師匠のバルドから、トーマはセクアの話をよく聞かされていた。森で初めて目にしたときのこと、その美しさ、ローダインの人々をどれほど魅了したか。幼い頃は大げさな話だと笑っていた。だが、この砦で若き騎兵団長ディランを目にしたとき、胸の中でその印象が覆された。
不思議なことに、師匠からディランについて語られたことは一度もない。トーマ自身は、この砦に来て初めて、彼の存在を知ったのだった。
ディランが白いシャツを脱ぎ捨てると、月光に似た肌に幾筋もの古い傷が浮かび上がった。最前線で戦う騎兵団の者は皆そうだ。彼は迷いなく新しい衣に腕を通し、長い黒髪を指先で払って背に流した。その仕草に隙はなく、わずかな余韻すらも冷ややかに感じられる。
トーマは、その様子をいつものように目で追った。新しい傷が増えていないか、密かに確認するためだ。戦場から戻った者はしばしば自分の怪我に気付かない。かつて背中に矢を刺したまま、平然と服を脱ごうとした兵士を見たこともある。
今日は索敵任務で比較的軽装だった。そのぶん危険は大きい。だが無事を確かめて、トーマはようやく胸の奥で小さく息をついた。
「そろそろ部屋の荷物をまとめないと、またエディシュさんに叱られますよ」
脱ぎ捨てられた服を拾い上げながら、トーマは声をかけた。予備の剣を差し出すと、ディランは革のベルトを締めつつ、目を向けぬまま答えた。
「まだ、報告書を書くからそのままでいい。荷物はどうせチェスト一つだ。すぐに片付く。ゼーラーン将軍のところへ行ってくるから、後は好きにしろ」
「食堂を手伝いに行ってきていいですか?」
トーマは兜を布で拭き取り、鎧箱にそっと収めた。
「ああ、行ってくるといい。今日は稼ぎ時だろう」
乾いた声でそれだけ残すと、ディランは剣を腰に下げ、足早に部屋を出て行った。残された空気には、まだ鉄と革の匂いが漂っていた。
(忙しい人だな)
トーマは袋に戦場の匂いの染みついた服を押し込みながら思った。肩にクラリッツァを背負い、袋を抱えて馴染みの洗濯係のもとへ向かう。明日の朝までに仕上げてくれるよう頼むと、その足で食堂へ向かった。
砦に来て、もう半年が経とうとしていた。
大陸のあらゆる地域から人々が集うこの砦は、トーマにとって心躍る場所だった。ローダイン、サントフェルド、ルッカ、ベラノーシュ──大陸の中心地に加え、その周辺の小国群、商業自治州、さらに遠い東国や南大陸からも人が訪れる。
馬の乗り方、剣の扱い、野営の仕方、獣のさばき方。やりたいと思えば、何でも学ぶことができた。ふと、師匠もかつてこうして砦で日々を過ごしたのだろうかと考える。
だが師匠との別れは唐突だった。滞在していた村で急に倒れ、そのまま逝った。病を患っていた様子もなく、あっけないほどに。人の死とは、これほど脆いのかとトーマは呆然とした。声変わりが始まったのもその頃だった。師匠の教え──「困ったらゼーラーン将軍のところへ行きなさい」──に従い、この砦に辿り着いた。
ここでの生活は想像以上に楽しく、師匠のクラリッツァを爪弾くことすら忘れる日があるほどだった。旅の途中で教わった歌や楽器、各地の風習や言葉、歴史や礼儀作法は、今もトーマの中に生きている。
けれども師匠のように吟遊詩人として放浪し続けたいかと問われれば、答えは違うように思えた。何者かになりたい──だが、その答えはまだ掴めない。今は従者の真似事をし、手の足りぬ場所を埋めるだけの日々。それでも、そんな日常すら明日には終わってしまう。みな砦を出ていくのだ。
胸に影を落とす思いを、トーマは首を振って払いのけた。
(そうだ、今日はこの砦で最後の夜。兵士たちの財布のひもも緩む。団長の言う通り、今夜は稼ぎ時だ。歌はまだ歌えないけれど、クラリッツァは弾ける。これからのことは……また考えればいい)
顔を上げ、食堂の扉を勢いよく開け放つ。その口元には、師バルド仕込みの、とびきりの笑顔が浮かんでいた。




