25.あきらはるはあきらめない
部屋でひとしきり休んで目を覚ました頃には、すでに日もとっぷり暮れていた。ハッとなって時計を探し出すと、陽は叫びそうになるのを必死に堪えた。
いくら疲れていたとはいえ、こんなに長い時間眠ってしまうとは。陽は自分で自分が信じられなかった。
ずっと自室にこもりきりでいるのもどうかと思ったので、陽はひとまず、何かしらお手伝いできることはないかとドアノブに手をかける。
(他のみんなも疲れてると思うし、ここは私の出番かな?)
外に出てみると、しゃかしゃか歩く駿河の背中が見えた。
「あ、駿河さん! おはようございまーー」
「うをを! なんだ陽さんか!」
あ、今はこんばんはなんだったと思う間も無く、駿河が大声を出す。
「すみません、びっくりさせてしまって……! あれ? 駿河さんの持ってるものって」
「あーこれですか。花一のヤロウが目覚めたらしいんで、そいつの夕食です。」
寝ぼけまなこで相槌を打つ。
「アンダーボスに頼まれちまったんですよねえ……ちぇっ。あの人、俺がちょっとボスに強く出たくらいでこれですよ。嫌がらせかなあ」
ーーオフレコでおなしゃす、と駿河は声を顰めた。
陽は、初めて会った時の駿河とは思えない、どちらかといえばおちゃらけた様子の彼に親近感を覚えて笑ってしまう。
「ひどいっスねー陽さん。あれか、人の不幸は蜜の味ってやつか。」
「あははっ、違うんです駿河さん。なんか、同級生と話してるみたいで面白いなあって」
パッと見た感じ、年も近そうなのでなおさらだろう。すると駿河も同じことを思っていたようで、少し二人で談笑することになった。
駿河から聞いた話はこうだ。
どうやら、駿河たち後衛部隊が捕縛した会員はみな、上の指示に従っていただけの連中だったらしい。食い扶持を減らされても困るというので、彼らはそのまま路地裏に放置してきたのだそうだ。
「まーまー、運がよきゃ助かってますって!」
「……みなさん助かってるといいですね。あとそれ、私にやらせてください」
駿河はびっくりして、またもお盆をひっくり返しそうになっていた。
「ええ! いいんスか⁈ 俺としては願ったり叶ったりだけど、アンダーボスにはーー」
「大丈夫です! もちろん言ったりしませんよ。私が立候補したんですから」
こうして、鼓膜を破ってしまったことへのお詫びも兼ねて、陽が配膳当番を申し出たのだった。
せめてもの償いとして、陽の分のジェラートを、オマケとして付けてあげる。
(うう……大好物のジェラートがあ!)
葛藤がなかったといえば嘘になる。しかしこれは陽だけの秘密だ。
地下牢へ続く道を、黙々と歩く。
花一を暗くて狭い地下牢に閉じ込めておくのも正直えーっと思ったけれど、怖い思いをした女性もたくさんいるのだということを陽は知っている。つい先ほど、駿河から今日の夕刊を見せてもらったばかりだった。
簡素な独房に到着した。
今この場にいるのは、花一と陽の二人だけ。
花一は聴覚こそもとに戻りつつあったが、さすがに骨はまだ外れたままのようだった。自力では食べられないと思うので、簡単な自己紹介を済ましてから、陽は花一に口を開けてもらうよう促す。
「行きます! はい、あーーん」
(一回やってみたかったんだよね、あーん! さすがにこのシチュエーションは予想できなかったけど!)
陽はにこにこ顔で、花一にスプーンを放り込む。そう、放り込む。
「っちち、熱い! 速い! ひとくちがデカすぎて食いづらいんだよ!」
ふるさとの母、そして聖田。
人からあーんをしてもらった回数は多いが、陽自身が誰かにあーんをするのは初めてだった。
「ひゃーっ‼︎ すみません! 善処しますから動かないで〜!」
無情にも、スープの汁はどんどん溢れていく。
「チッ、新手の拷問かよ。ーーもういい。こんな状況で飯なぞ食えるか」
花一はせっかくの夕食をほとんど残すと言う。陽はたまらず、せめて犠牲になった大好物のジェラートだけでも花一に食べてもらおうと試みる。
「そんなこと言わずに! このジェラート、ひやっとしててさっぱりしてて……とにかく食べ易いんですから!」
「ワードセンスが幼稚すぎねえか」
「食べてみれば分かるんです、さあ!」
花一は陽の押しに耐えかね、やがて諦めたように口を開いた。
(どうだ⁈ どうだ……⁈)
「ーー不味くはねえ。が、俺はもっとガツンとした味の方が好みだ」
(ガーン!)
予想だにしていなかった酷評にあんぐりと口を開けて固まるが、そんな陽をよそに、花一は残りのおかずを運ぶよう強請る。
陽の手先もだいぶ安定してきて早十分。ただ食事をするのもつまらないと言う花一のために、陽は彼の話し相手になってあげていた。
世間話やら、過去の失敗エピソードやら。陽の話せるレパートリーももうなくなってきていた頃だった。
「嬢ちゃんに聞こうーー俺は、どうやったら幸せになれたと思う?」
客観的な意見でいい、と花一は静かに言った。突然の質問に陽は驚く。
「初めは本当に小さな出来心でよお。いい憂さ晴らしになると思ったんだ。それがこのザマだがな」
全能感を得たいがために。
(花一さんにとっての幸せって、なんなんだろう)
陽は頭をフル回転させ、熟考する。
「ええっと、これは私の持論なんですけどねーー人は夢を見ないと幸せになれないと思うんです。」
(今まで誰かを貶めることでしか、幸福感を得られなかったんだとしても。幸せになる方法はそれ以外にもある!)
花一は眉をぴくりと動かした。
「だから幸せになるためには……どんな小さなものだっていい。まずは夢を見ることから始めないと! たとえば、明日はもっとガツンとしたジェラートに出会えるかも、とか!」
花が咲いたような笑みが花一に向けられる。花一は意表を突かれたように目を丸くした。
(自分のしたことを悔い改めようと思ってるんだもん。あとはちょっとだけ、背中を押してあげるべきだよね)
「俺の素性を知ってなお、そんなめでたいことが言えるのか? 俺が憎くないのか」
「いや! 私、まだあなたのこと許してないんですからね! だからーーこれからもちゃんと生きて、償ってください」
被害に遭った人たちが浮かばれるわけじゃない。無念が消えるわけじゃない。ただ目の前の尊き命が失われてゆくのが、もっともっと嫌なだけだった。
ーーどうか、これからどんなに苦しくなっても、被害を受けた女性たちのことを背負って生き抜いてほしい
陽はそんな願いも込めて、花一にまた明日を言った。
お盆を両手に歩いていると、暗がりに向かっていく聖田とすれ違う。
「あれ、朧さん? ご飯ならさっき私がーー」
聖田が陽を見た。気のせいかもしれないが聖田はちょっと驚いている。
「……配膳当番は駿河さんと伺っていたのですが」
「え、えと、それはですねえ」
(どうしよう! 誰にも言わないって約束だったから)
「……代わってあげたんですね? 陽さんは優しいから」
(うぐぐぅ)
「でもでも! 駿河さんは悪くないんですよ。私が勝手に立候補したんです」
「朧さんこそ、どうしてこちらに?」
声が上擦りそうになるのを頑張って抑える。聖田にすぐ気づかれてしまった陽は、嘘を吐くこともできそうにないので、とりあえず話題をすり替えた。
「実は僕、彼と"お話"しに行かなければならないんですよ」
花一は他でもない、聖田が骨を折った相手である。
そんな相手と何を話すのだろうか、気まずくはならないのだろうかと陽はつい心配してしまう。
「それなら、三人でおしゃべりするのはどうですか? せっかくですし」
勇気を出して提案してみたものの、聖田からは誘いをやんわりと断られてしまった。名案だと思っていただけに、陽は少なからずショックを受ける。
(待てよ。朧さんは優しいから、ごめんなさいって言いに行きたいのかも)
積もる話もあるだろうし、かえって二人の方が良いということもあるのだろう。
陽は空気を読んで、それ以上は聖田の事情に踏み込まないようにした。
「それに、陽さん貴女ーー文堂さんにお呼ばれされていましたよ」
「え⁈ セイコさんからですか⁈ なんだろう」
「何はともあれ、早めに行ったほうが身のためだと思います」
(さっそくお手伝いかな? セイコさんの力になれればいいなあ)
「ああそうだ。ーーこれ、陽さんのでは?」
陽は目を瞬かせる。聖田から差し出された"らくらく薄型トランシーバー"は、陽のもので間違いなかった。
「あーっ! ずっと探してて、今頃……!」
「今回はトランシーバーだけで済んだから良かったですが、ここは仮にも男所帯なんです。もっと気を付けていかないとダメですよ。」
陽を諭す聖田の声のトーンは、いつもより低く、そして重かった。
「はい! 拾ってくださってありがとうございます。私、朧さんに助けてもらってばっかりで……! そのうち何かお礼させてください」
「分かっていただけたようで何よりです。うふふ、僕にお礼だなんてーー陽さんの気持ちはありがたく受け取りますね」
(なんらかの形で感謝を伝えたい……気持ちだけで終わらせないようにしないとね!)
陽はぐっと拳を作って燃えていた。
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「それではまた後ほど。"凄腕のスナイパー"さん」
陽はにこやかに会釈したかと思うと、たちまち耳まで真っ赤になってしまった。日楽 陽百面相図鑑なんかが出版されてもおかしくないほど、今日の陽は様々な表情を見せてくれる。
「な、なななな、なんでソレをっ⁈」
「文堂さんから聞いたんですよ。
踊り子姿の陽さんも、ぜひ生で見てみたかったなあ」
陽はお盆で顔を覆いながら、逃げるようにして去っていった。
("人は夢を見ないと幸せになれない"、か。本当にその通りだと思います……陽さん。)
さっきまで陽のトランシーバーを忍ばせていた胸ポケットを、聖田は所在なげに撫でる。
ーーカツン、カツン、カツン、コツ
引き戸を背に、怯えた目つきの花一と向き合う。右のポケットに手を突っ込んだ。
「いやはや、陽さんはいつまで"キレイ"でいられるんでしょうねえーーああ、これからが楽しみだ」
ペンチのグリップを握り直した聖田が浮かべるのは、陶酔したような表情だった。
調べてみたら鼓膜が破れて完治する期間ってだいたい2〜3週間くらいらしいので、陽は実際には花一の鼓膜を破ってはいないはずです。多分ライブから帰ってきた程度の聞こえづらさだったんじゃないかなと思います。