カーズ先生
「大魔導士ウィスターナ。様々な過去の其方の功績を讃え、褒美として余の妃にしてやろう。ゆくゆくは国母となる名誉だ。これに代わる栄光は二つとないぞ」
王子よ、いきなり何を言う。私が魔導を学んだのは、王子の妃になるためでも、王の子どもを産むためでもないわ。
「元は貴族ではない其方には理解できないのは仕方がない。其方の多少の無礼は許してやろう。其方なら優れた魔導の力を持つ王の子を産むことも可能だ。さらに偉大な功績を残せるだろう」
王の子であることに魔導の力は関係ない。なぜ王の子が、自らの血筋や地位を軽んじるの。
「魔導の力が優れているほど不老ではないか。すでに力を持つ其方には分からないのだ。それがいかに素晴らしいのかが」
王子の妃には、ふさわしい地位の娘を選べばよい。貴族の娘は何のために淑女として教育を施されていると思うの。
「そうか、其方は己の出自が不安なのか。それなら容姿が似た貴族の養子になれば問題はない。貴族の振る舞いもこれから学べばよい」
違う、私はそんなことを言っていない。私は魔導で国に仕えるだけだと言っているの。
「そうだ、其方は宣誓により国に忠実であれ。余の子を産むのも其方の務めだ」
違う、私は魔導士よ。魔導以外の命令に従うつもりはないわ。
「黙れ。余に逆らうつもりか。王命だ、従え。異論は許さぬ」
王命ですって? そのような理に反した命令が、議会を通ったの。
「ああ、満場一致で可決されたとも。みな、喜ばしいことだと祝福していたぞ」
なぜ誰も私の意見すら聞かないの。
§
嫌な夢を見た。前世の記憶だった。
あの話が決して通じない、噛み合わない腹立たしいやり取り。
ベッドの上で慌てて上半身を起こしたら、部屋でカーテンを開けていたメイドの気配に気づいた。
今日は曇り空みたいで、窓から差し込む朝日は少し弱かった。
「おはようございます。お目覚めですか? ミーナ様がご自分で起きられるのも珍しいですわね」
にこやかにメイドのリナさんがベッドに近づいてきて話しかけてくれた。自分の母親と同じくらいの年頃で、気さくで感じのいい人だ。私専属のメイドなので、彼女には毎日お世話になっている。
「リナさん、おはようございます。嫌な夢で目が覚めちゃったの」
じっとりと肌に滲むような汗までかいていた。
心臓の音が聞こえると錯覚するくらい、激しく鼓動している。
「まぁ、それは災難でしたわね。早く忘れたほうがいいですわ」
「そうよね」
もう過去のことだから、忘れられるなら忘れたい。
でも、この国の魔導士は未だに誓約で縛られている。
命まで失った失敗を二度と繰り返さないためにも、忘れるわけにはいかなかった。
あいつは、まだ生きているから。私を踏みにじり絶望に落とした、この国の最高権力者。
§
身支度を整えて広い食卓に行けば、私の分だけ食事が用意されている。
ここに住んで一ヶ月ほど経ったけど、ほとんど一人で食べている。
「はぁ」
「ミーナ様、どうされました?」
「いえ、こんな大きなテーブルに一人で食事って慣れなくて。リナさんたちと一緒に食事はできないのかしら」
正直寂しかった。食事のときだけ家に帰りたくなる。ここではいつも色とりどりの美味しい食事が並ぶけど、家族でワイワイ賑やかに食べる時間が恋しかった。
前世のときは、こんな風に感じることは決してなかったけど。
「申し訳ございません。私たちは主人より後でいただくことになっておりますので」
「そっか、困らせてごめんね。そういえば、今日も師匠の帰宅は遅いのかしら?」
マルクと呼ぶのは、彼と二人きりのときだけにしている。今の彼は別の名前を使っているから。
「はい、今日は王宮に寄る予定があるそうです」
「そっか。分かったわ」
この屋敷の主人であるマルクは、いつも私より早起きして食事を済ませ、学校に出勤している。
以前、彼に合わせて起きて食卓に座ったけど、私の目がしょぼしょぼで食欲もほとんどなかったせいか、無理に合わせなくていいと彼に断られてしまった。
夕飯時にも彼はほとんどいない。いつも外で誰かと会食ばかりだ。私よりも遅く寝て、早く起きて活動している。
マルクは大丈夫なのかしら。忙しすぎて色々と心配だわ。彼の弟子になったからには、何か手伝えればいいけど。魔導以外は無能だから無理か。せめて迷惑をかけないようにしたい。
学校に一人で向かうと、校門で生徒を出迎えるマルクがいた。私に気づき、笑顔を浮かべる。
「おはようございます」
ただの一人の生徒として彼に挨拶して、そのまま過ぎ去っていく。
学校では目立ちたくないので、師弟関係は極力伏せる予定だ。このまま何事もなく初等部の卒業まで保てばいいな。
§
朝のホームルームで、担任の先生からお知らせがあった。
「二週間後に課外授業が予定されています。当日は弁当が必要だから、忘れないでくださいね」
弁当と言っても、どんなものがいいんだろう。前世の私のときに、こういう授業はなかったから、全然分からないわ。
先生はすぐに次の話題に移っちゃったから、質問できる雰囲気ではなかった。
ああ、でも未知のものって、それだけでワクワクするわね。
詳しい話は昼食時に友人たちから聞いた。
「お兄ちゃんから聞いたことがあるけど、珍しい植物が生えているところを実際に観察しに行くみたい。遠足やピクニックみたいなものだって。初等部一年の恒例行事の一つよ」
「お菓子も持っていっていいんだよね。ねぇ、みんなでお菓子交換しようよ」
いつも仲良くしてくれる友人二人が親切に教えてくれた。
「わぁ、それは面白そうね。いい考えだわ」
楽しみが増えて、遠足が待ち遠しくなった。前世で学校生活らしいことを何一つしなかったから、とても新鮮だった。
それから平穏に一日の講義が終わり、学校内にある図書館へ向かう。マルクの部屋の本も自由に読んでいいと許可はもらってはいたけど、本人がいないのに部屋に勝手に入るのは気が引けていた。
今日も基礎的な教科書を確認するつもりだ。私の死後、何か発見があり、やり方や常識が変わっている可能性がある。現在の魔導の知識を早く知りたかった。
図書館の中は生徒がまばらにいた。誰も無口なので、物音だけが微かに聞こえる。静かな空間が前世から好きだから、教室にいるより気分が落ち着く。
沢山の本も好き。特に魔導に関する内容だと、血が騒ぐくらい気分が高揚して、マルクが指摘していたように寝食を忘れるくらい没頭してしまう。まさに貪るように知識を得ようと夢中になる。前世では人間よりも本を愛していたくらいだ。
「お前すごいね。それ読めるの?」
だから、いきなり声をかけられたとき、やっと我に返っていた。
「え?」
私は本棚の真前で立ったままだったので、話しかけられるまで人の気配を感じてなかった。
振り返ったら、一人の男性がいた。年齢は三十代半ばか四十代くらいだろうか。割と顔が端正な上に体の線が細いので、中性的な美形な感じ。他の教師のようにスーツ姿だ。
この短くカールした栗毛の人をどこかで見た覚えがあったけど、初等部の先生ではないから、それ以外の先生だろう。
「何かご用ですか?」
ヒソヒソ声で返事をする。
「いや、その本だけど、俺の故郷の本で、リーカイド語で書かれていないから、読めるなんてすごいと思ったんだ」
先生はふんわりと笑みを浮かべる。
彼は本当に興味本位で声をかけてくれたようだ。誠実そうな雰囲気を言葉と表情から感じた。
読んでいた本は、確かにこの国のものではなかった。うろうろ歩いて棚を眺めていたら、つい見つけていた。見慣れない本が珍しくて手が伸びて、そのままそこで立ったまま読んでいた。異国の言葉は辛うじて読めた程度だ。そこまで流暢ではなかった。
前世で国中の魔導の本を読み尽くしたあと、更なる魔導の知識が欲しくて、こっそりと他国に密入国して本を漁っていたときもあった。そのときに他国の言葉も少し習って覚えていた。
でも、初等部に入学したばかりで、普通ならそんなことできるわけもないし、正直に言えるわけもない。
「いえ、全然読めませんよ。ただ単に眺めていただけです。珍しくて」
「そうか? 随分熱心に読んでいたみたいに見えたけど」
褐色の目がこちらを窺うように見ている気がした。
どきっ。なにか疑われている?
「それよりあなたは、エルフィンから来たんですか?」
「そうだよ。三十年くらい前にな。今は情勢が落ち着いているから、この国と交換留学もやっていて交流が盛んなんだよ」
慌てて話題を変えたら、彼は上手く乗ってくれた。
「へー、そんな制度があったんですね。面白そうですね」
「ああ、興味があるならお前も狙ってみれば? エルフィンはこの国みたいに宣誓する必要はないからな。特に女子に人気だ」
彼の言葉をいまいち理解できなくて首を傾げる。
「あの、どうして女子に人気なんですか?」
「いや、それは俺の口からはちょっと」
彼はなぜか苦笑いして、言葉を濁す。
「俺はカーズと言うんだ。高等部の教師だ。お前の名前は?」
「ミーナです」
「また見かけたら、よろしく」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。カーズ先生」
彼はあっさりと先に帰っていった。受付にある時計を見れば、もうすぐ閉館時間だった。声をかけられなかったら、きっとチャイムを聞いて慌てて帰り支度をする羽目になっていた。
周囲に人は見かけない。もう生徒は私を除いて全員帰ったのかも。
片付けをして鞄を持ち、出口に向かって歩き始めたときだ。
「え?」
急に背後が気になって振り返った。
そこには一人の男性がいた。さっき帰ったはずのカーズ先生が。
「よく気づいたな」
さっきみたいに微笑んでいる。でも、どうしてこんな気配なく私の後ろにいたの?
彼が一歩近づいたとき、警戒して思わず後ずさってしまった。
『大魔導士ウィスターナ・オボゲデス、俺を覚えているか?』
カーズ先生は、いきなりこの国のリーカイド語ではなくエルフィン語で話しかけてくる。急に彼の声色は低くなっていた。顔つきまで変わり、愛想が一切ない真顔になっている。
でも、言われた内容のせいで頭が真っ白になりそうなほど面食らった。
どうして分かったの?
頭の中でそんな疑問が瞬時によぎるけど、まずは目の前のいる彼の対応が先だ。
「先生、申し訳ないんですが、何を言っているのか分かりません」
『バレバレの嘘をつくなよ。ずっとお前を見ていた。初等部の生徒が高等部の本をなぜ読む? 誰も気づかないと思ったのか? 油断しすぎたな』
「あと、すみません。そろそろ帰る時間なので失礼します」
『無視かよ、ひどいな。下僕の俺を忘れたのか? 俺はお前のことを一瞬たりとも忘れたことはないのに』
彼の言葉の端々から私への根深い執着と恨みの念を感じる。
エルフィン出身の私の下僕。まさか。
一つだけ苦い心当たりのあった。
心臓がうるさいくらいバクバクする。
そそくさと急いでいる風を装って足早に図書館から出ていった。
周囲を警戒していたけど、カーズ先生は追ってきていないようだった。
マルクに報告しないと。ひとまず彼の屋敷に戻ることにした。