第六話:苦悩と忠誠
分厚い深紅の絨毯がブーツを柔らかく受け止め、足音は鈍い響きと共に虚空へと消えてゆく。壁にかかるタペストリーを松明の光が照らし、長く重い影をかたどっている。タペストリーは勇敢な戦士の物語をつづっていたが、闇に照らされるそれは重く沈んだ空気をまとい、華やかさとは無縁に感じられる。タペストリーの隙間からのぞかせるむき出しの石壁が、廊下の寒々しさ、重々しさを増させていた。
廊下をさらに先に進むと、左手に黒い人型が二つ浮かび上がった。全身を鋼の鎧で覆った衛兵が二人、観音開きの扉の両脇に並んで立っている。私では動くことさえかなわぬ鎧を着こんだ衛兵は、私に気付くと直ちに敬礼の姿勢を取った。私はうなづくと、扉をあけるよう促した。右側に立つ衛兵が扉をあける。
籠手をはめ込んだままだというのに器用なものだ、と感心しながら中へと入る。そして部屋の中ほどまで歩くと、片足をひき、膝をついて俯いた。背後で扉がゆっくりと閉まる音が聞こえた。
「およびでしょうか、陛下」俯いたまま定められた言葉を尋ねる。
「面を上げよ、愛する息子よ」細く、かすれるようなその言葉を耳でかみしめるように聞き取ると、ゆっくりと立ち上がり、私を息子と呼ぶ相手を見つめた。
十人は横になれるほどの大きく丸い天蓋ベッドに、一人のやせ細った老人が身を横たえている。最高級の枕をいくつも重ねて背もたれにしているその老人こそ、サン国の現国王であり、わが父エルドゥア王である。
「もっと…近くに来てはくれぬか。声を張るのがつらくてな」
私は王のベッドに歩み寄ると、枕元に置かれた小さな丸椅子に腰かけた。そこがいつからか忘れてしまった、私が父と話すときの定位置だった。
父は私が椅子に座ると、深く息を吐きながら体を枕に預けた。身にまとった白衣のように軽くなってしまった体が沈んでいく。
「お体の具合はどうですか、父上」定められたわけでもないのに、いつもと同じ言葉を繰り返す。答えも決まって同じだった。
「相変わらずだ…。体は鉛のように重く、肺は…縄で縛られているかのごとく…呼吸を拒む。灼熱の血は凍りつき…立ち上がるどころか、起き上がることさえも苦痛だ。指先は震えをやめず、各地を治める諸侯に…労いの手紙さえ送れぬ。だが、何よりつらいのは…」きしむ音さえ聞こえそうな首を上げて、視線を私にあわせる。
「愛する息子に…早すぎる荷を負わせていることだ」
「父上、私は大丈夫です。確かに私はまだ若いですが、陛下を支えた元老院が同じく私を支えてくれています」
「……そうか。ところで、ヘイルはどうした……? この前戻ったばかりのはずだが……?」視線を辺りに走らせる父。だが、彼の求める姿はどこにもない。
「……ヘイルは、次の遠征にいっております。お会いできずに申し訳ないと伝えてほしいと言っておりました」
「……そうか。あの子は、立派に戦っているのだな。戦の武勇は、また今度聞くとしよう……」父は深くため息をつくと、沈んだ面持ちでつぶやいた。その額にうっすらと汗がにじんでいる。呼吸は深く浅い。皺の寄った眉が弛緩し、まぶたが重そうにおり始める。
「父上、お疲れでしょう。そろそろお休みになられては」
「何を言う…お前はまだ来たばかりでないか……。これくらいでは疲れはしないぞ…」そう言いながらも、父のまぶたは降りては上がるを繰り返している。
「父上、私が来てそろそろ一刻以上が立ちます。私もいささか疲れてしまいました。これから遠征の調整をしなければならないので、おいとまさせてはいただけないでしょうか。」
「むぅ…そうか…ならば仕方がない…。話はまたにしよう」そう言い終える前に、王のまぶたは閉じていた。私は立ち上がると、父の体に羽毛の布団をかけ、ほほにそっと口付けした。
「おやすみなさい、父上」踵を返し、扉に向かう。背後から静かな寝息が聞こえていた。
部屋に戻り、後ろ手で扉を閉める。疲れてもいないのに重くなった足を動かして部屋の中を歩き、書き物机の椅子に倒れるように座り込んだ。背もたれに深くもたれて体を伸ばし、凝り固まった体を伸ばす。
父はもう長くない。その逃れようのない事実が容赦なく心にのしかかる。
わが父、エルドゥア王は随分と長い間病にふせっている。記憶にある力強く、快活に笑い、精悍な顔つきをした父を見たのはいつだったのか忘れるほどに。父は賢く公平だったが、そのために変化を嫌う元老院との衝突は絶えなかった。そしてある日、父を誰よりも愛し、支えていた妻、私にとっては母であるエレナ王女がはやり病に倒れ、間もなく亡くなった。そのすぐ後に戦争が始まった。父は傷ついた心をいやす暇もないまま懸命に働き、そして病に倒れた。過労で疲れ切っていた体に、病魔が取りついたのだ。
それからは、私がこの国を治めている。まだ成人にも満たなかった私に付け込もうとする者は数多いた。それに加え、戦争という国家の命運を託された。だが、いつか父が回復すると信じて今日までやってきた。
だが、それも絶望的だ。医師の説明などいらない。あれは片足が死につかり始めた者の目だ。既に時間の感覚さえなかった。きっと、尋ねる者がいない間ずっと眠り続けているのだろう。その眠りから覚めなくなるのもそう遠い日ではない。
「……加えて、これか」ため息をつきながら、引き出しをあける。中には一通の手紙が入っている。内容は空で読み上げられるほど読み直した。
『なにも言わず旅立つことをお許しください。ですが、これはまたとない機会なのです。奴はまだ生きている。なら、この国にいる内に倒すべきです。私は奴を追います。そして必ず見つけだし、打ち取ってみせます。サン国の勝利のために。敬愛する兄上へ。
――――――ヘイル』
この手紙は、弟の部屋の机に置かれていたものだ。あいつがいなくなったのに気がついたのは旅立ってから一日が過ぎてからだった。
私は頭を抱えた。髪をかきむしり、机の上のあらゆる道具を弾き落とし、机を窓に放り投げたい衝動に駆られる。
弟は何もわかっていない。あれは自分が騎士であるかのように振舞い、皇子であることを忘れている。自分の存在、行動が、この国にどれだけ影響を与えているかわかっていない。それにどれだけ私が苦しんでいることも。
本当なら軍を総動員して探しだしたいところだ。だが、それはできない。ヘイルが行方不明と知れたら国は大騒ぎとなる。それは士気にも影響し、戦況に響いてくる。それだけは避けねばならない。幸い、このことを知っているのは一握りの人間だけだ。だが、それもいつまでもつかどうか。
頭を抱えてそんなことを取りとめもなく考えていると、部屋にノックの音が転がった。
「誰だ」すばやく姿勢をただし、扉を見つめる。
「近衛隊隊長、ヴァケイラスであります」張りつめた声が答える。
「入れ」
「失礼します」扉が開き、衛兵隊長が入ってきた。全身に鎧をまとっているが、兜だけは外し、右脇に抱えている。
くすんだ赤い髪に、額に小さな傷。つりあがり気味の眉に引き締まった精悍な顔つきは、女性を引き付けるに足るものだが、本人は女性に全く興味がなくらしく、また常に兜をかぶっているためにそれを披露することもない。
「どうした、ヴァケイラス」机に肘をつき、先ほどより親しみをこめて尋ねる。ヴァケイラスは私が信頼を置くことができる数少ない人物の一人だ。私には信頼できる者が少ない分、彼らに対しては心を完全に許すことにしている。それは弱さゆえの行動なのかもしれないが、それが信頼する者に対しての礼儀であると私は考えている。
ヴァケイラスはためらいがちではあるが、おもむろに口を開いた。
「あ、あの。私には、出過ぎた真似かもしれないのですが……」ヴァケイラスはたどたどしく答える。いつもの彼は常にはきはきと部下に的確な指示を送るのだが、今は妙に自信がなさそうである。
「構わん。お前はいつも私のために行動してくれている。出過ぎた真似などあるものか」その言葉を許しとしたのか、彼はいつもの口調に戻った。
「ガナ皇子、私に何かできることはないでしょうか」
「……なに?」私はぽかんとしてしまった。あまりに予想しなかった問いなので、思わず聞き返した。
「ですから、私にできることはないでしょうかとお尋ねしたのです。知恵を貸すほど私は頭はよくありませんが、お話を聞くことはできます」彼は繰り返した。
「……そんな心配をさせるほど、私の様子はおかしかったか?」
「最近の皇子はずっと考えこんでいるご様子で、顔色もよくありませんでしたので」
「……そうか。気持ちはありがたいが、そんな心配はしなくてもよいぞ」
「ですが! 私は、皇子のお役に立ちたいのです。この命を皇子に救われてから、皇子に生涯仕え、守ると誓ったのですから」そう言って、額の傷に手を触れた。
「そんなことをまだ気にしていたのか。あれは私が勝手に取った行動だ。それをお前が気にすることはない」
「ですが、皇子はそのせいで剣を握ることができなくなってしまいました」机に隠れている私の右腕を見つめるヴァケイラス。
まだ父が健全であったころの話だ。私は戦場で兵を率いて戦っていた。その頃の私は若者らしい無意味な勇敢さで前線に立っていた。気付いたころには敵に囲まれていた。
私があわてて引こうとした時、ヴァケイラスを狙う弓兵がいるのが眼の端に映った。警告の言葉を発したが、ヴァケイラスは気付かない。私は彼に走り寄り、腕を伸ばした。
矢は籠手をつけた私の腕を貫き、彼の額を掠めた。
それ以来、私の右腕の筋力は落ち、剣を握ることはかなわなくなった。
「私を守ったばかりに、あなたは戦場に出ることもかなわなりました。……人民の中には、ヘイル皇子と比較する者もいます」
「その者たちはこういうのだろうな。『ガナ皇子は弟のヘイル皇子と比べて臆病者だ』と。それは事実だ、ヴァケイラス。私はヘイルのように戦場で戦う勇気はない。こうして書類と闘うのが私には性に合っている」
「しかし……」まだ何か言おうとするヴァケイラスを、片手で遮る。
「それにな、ヴァケイラス。私は剣を握れなくなったことを嘆いてなどおらぬ。元々私に剣の才などない。十人分の強さと忠義を持つお前と引き換えなら、安いものだ。……頼りにしているぞ、ヴァケイラス」心からの言葉に、微笑を添える。
そう、後悔などしていない。私が戦えない分、彼が戦ってくれる。実際、ヴァケイラスはこの国で一、二を争う戦士だ。私が戦場に出ないためにその腕前を披露する機会はないが、ヘイルと互角に戦えるだろうと私は思っている。無論、それを人に言ったところで贔屓しているとしかとられないだろうし、人に言うつもりもないが。
「あ、ありがとうございます、皇子!」ヴァケイラスは感激のあまり、私が父に取ったのと同じ礼を取った。片膝をつき、こうべを垂れたのだ。それは最上級の礼であり、つまり国王または王妃にしか使ってはいけないものだ。私はあわてて席をたち、彼をたたせようと歩み寄った。
「ヴァケイラス。頭を上げてくれ。私はそれを受けるに足る人物ではない」
「いいえ。私にとって、皇子こそ王であります。そしてそれは近衛隊全員の一致する考えであります」と、ヴァケイラスはうつむいたまま答えた。
「……ありがとう、ヴァケイラス。だがな、それを快く思わない者もいる。できれば、そういった考えを吹聴して回るような言動は控えてくれ」その言葉に、ヴァケイラスは弾かれたように立ち上がった。
「す、すみません、皇子。浅慮でした」
「いや、君たちがそう思っていると聞いてとてもうれしい。せいぜい君たちの信頼と尊敬に足る行動をとるとしよう。さぁ、もう行きたまえ。心配しなくても、お前は十分私の役に立ってくれているよ」私は彼に退出するよう促した。彼はうなづくと、扉へと歩いて行った。私も席に戻ろうとすると、彼が私を呼びとめた。
「ガナ皇子」振り返ると、ヴァケイラスは敬礼をしていた。
「なにがあろうと、私の剣はあなたと共に」彼は返事を待たず、部屋を出て行った。
私はあきれながらも、彼の忠誠心の厚さに感謝しつつ席についた。
「では、私にできることをするか。彼らの忠誠に報いるためにも」そうつぶやく口の端は自然と笑顔になっており、先ほどまでまとわりついていた肩の重さは消えていた。
お久しぶりです、じょんです。現在帰省中で、更新が遅くなってしまい、申し訳ありません。
今度は文章を元に戻してみました。やっぱりこっちのほうがしっくりくるので戻したのですが、どうしても嫌という方がいましたらご連絡ください。
モブキャラのはずのヴァケイラスが、気付いたらトンデモポテンシャルの人になってしまいました。まぁ、いつか日の目を見ることもあるかもしれませんね。