第一章 第一話:目覚め
眩しさに目が覚めた。重い瞼をゆっくりと開けると、どこからか光が差し込んでいるのに気づいた。やがて完全に目が覚めると、それは頭のほうにある窓から差し込む日差しであることがわかった。
「ここは・・・・・・?」寝たままの体勢で、あたりを見回した。
そこは小さな四角い部屋だった。僕はその部屋にある数少ない家具の一つである、質素ではあるが清潔なベッドに寝ていた。隣には腰ほどしかない低い、小さな棚と、椅子が一脚置かれていた。その他は白く塗られた漆喰の壁があるだけで、家具らしきものは何もなかった。
とりあえず起き上がろうとすると、突然腹部に激痛が走った。
「っっつ!!」吐き気を催すほどの鋭い痛みに思わず声を漏らした。すると、ベッドの向かい、ちょうど自分の足先にある扉のから足音が聞こえ、次いでドアが開いた。
入って来たのは年若い少女だった。背は特別高くはなく、スカートとシャツが一体となった、布製の質素な服を来ている。少し日に焼けているのだろう、朱と茶が混じった肌の色をしている。薄い唇に、少し太めの眉。何よりこちらをじっと見つめる大きな瞳が印象的だ。
少女はその瞳を大きく見開いて僕をじっと見ていた。その間、僕はその瞳に釘付けにされたまま、何もいえなかった。
「よかった、気がついたのね」しばらくして、少女はおもむろに口を開き、ほうっと安心したように目じりを下げた。少女はゆっくりとベッドのほうへとやってきて、置かれていた椅子に腰かけると、口を開いた。
「すごく驚いたわよ、突然上流から人が流されてくるんだから。おととい、私が川に魚を取りに行ったら、あなたが流されてきたの。それで、うちに連れてきて、ここに寝かせたの。もう、今日で三日目なのに、全然起きる気配がないから、このままずっと寝たままなんじゃないかって心配していたのよ」まくし立てるように今僕がここにいることの説明をしてくれる彼女。どれくらい心配してくれていたのかはわからないが、これだけのことをいっぺんに、よどみなく話せるのだ。そのことを考える程度には、気にかけていてくれたのだろう。なんにせよ、そのおかげで、
「どうしてぼくはここに?」なんて質問は必要なくなったのだ。
「そ、そうだったのか。ありがとう、助けてくれて。そういえば、ここはどこだい?」少女は椅子に座りなおして答えた。
「ここはソースウッド、サン国の領土の小さな村よ。私はクリス。そういえば、まだ名前を聞いていなかったわね。あなた、名前は?」
「ああ、僕は……。」言いかけて、沈黙した。
「僕は?何?」クリスが促した。
「僕は……誰だ?」僕はクリスに尋ねた。
「え?」クリスはあっけにとられた。
「なるほど。自分がだれで、どうして川に流されたのかもわからず、全く記憶がないわけね。」クリスが先ほどまでの話をまとめた。僕はまだ動揺を隠せないままうなずいた。
「済まない。どれだけ思い出そうとしても、まったく思いだせないんだ。起きる前の記憶が全くないみたいなんだ」
そう。どれだけ思い出そうとしても、何も思い出せない。
自分はどこから来たのか。川に流される前は何をしていたのか。名前は、生まれは、年齢は? そういったことの一切合財が思い出せないのだ。
「いいのよ、無理して思い出そうとしないで」
不意に、肩にぬくもりを感じた。見ると、クリスが右手をそっと僕の肩に乗せている。僕の体温よりも幾分高い彼女の手のぬくもりがつたわり、動悸が治まっていく。そこで初めて、自分が動揺していたことに気づいた。きっと顔も青ざめていたに違いない。それに彼女が気づいてくれたのだ。
自分のことが何も思い出せない。そのことは、思った以上に僕の心を乱していたのだ。
「仕方ないわ。あなた、体中傷だらけだったんだから。それにずっと起きなかったし。頭を強く打ったみたいだし。きっとそのうち思い出すわよ」と、クリスは僕の頭を指差した。頭に手をやると、包帯が巻かれている。少し強めに触れると鈍い痛みが走った。
「ほら、まだ触らないで。そうだ、思い出すまでのしばらくの間、名前がないと何かと不便ね。イェリシェンなんてどう?」クリスは思い出したように言った。
「イェリシェン。うん、いい名前だね。どういう意味があるんだい?」僕は尋ねた。クリスはいたずらっぽく笑った。
「内緒。さぁ、おなかすいてるでしょ、何か持ってきてあげる。」クリスは立ち上がり、部屋を出て行った。
彼女が部屋を出て行ったのを見届けると、窓の外を何ともなしに眺めた。
強い日差しに目がくらむ。白む司会は、自分の記憶のようだ、と思った。
そう。真っ白。思い出そうとしても、何も思い出せない。おぼろげな、記憶をつかむ何かさえ出てこない。言葉や物の名前の知識は出てくるのに、思い出そうとしても、頭に浮かぶのは真っ白の景色。空白の世界だけだった。
まるで、今この瞬間にこの世に生み出されたみたいだ。
その考えは、僕の心臓をわしづかみにした。
狂ったように早鐘を打つ心臓。凍ってしまったような血液を知覚し、体が凍える。呼吸が速く、浅くなる。息が苦しい。もっと空気を。
この感覚は恐怖によるものなのか。だとしたら何におびえているのか。
わからない。わからない。わかるのは、考えてはいけない。考えては、そのことを。
何のことを?
「イェリシェン、あなた食べられないものある?」ひょこりと、扉から顔を出して聞いてくるクリス。
「いや、特には何も」
「そう。じゃ、今もってくるね!」彼女は顔一面の笑顔を残して扉の奥に消える。
「イェリシェン、か」ふと、今自分に与えられた名前をつぶやく。
それは妙に腑に落ちて、胸を落ち着かせた。先ほどの動悸は、嘘のようになくなっていた。僕がつかみかけた何かも一緒になって。