男の謀。
浅い眠りから目覚め、ユエリャンは視線を巡らせた。石壁をくりぬいた窓から見える月の位置から、一刻ほど微睡んでいたのだと推測する。
陽が落ちると急激に冷えるこの国から見える月は、故国のものより冴え冴えと冷たく見えて、ユエリャンは双眸をすがめた。その目を下にすべらせると、一糸まとわぬラクシャが穏やかな寝息を立てている。
胎児のように体を丸めて眠る彼女のほつれた黒髪の絡みつくこめかみに、ユエリャンは口づけを落とした。くすぐったかったのか、ラクシャは小さく呻いて身じろぐが目を覚ます様子は無い。
その姿に、まだ子供と表現して差し支えなかった頃のラクシャを思い出し、ユエリャンは笑みをこぼした。
ようやくだ。ようやく、この娘を手に入れた。ユエリャンは寝台に頬杖をつくと、空いた手でラクシャの髪を梳きつつ、口元を緩める。
ユエリャンがラクシャのもとに参じたのは、彼女の叔父の命だった。それは真実だが、口にしていない事もある。
国屈指の名家の当主でありながら、一族郎党残らず辺境に追いやられる屈辱を舐めさせられても、ラクシャの叔父―――ユエリャンの真の主の心は挫けなかった。主はこれは雌伏の時と、腐ることなく辺境から網を巡らせ、中央に返り咲く機を虎視眈々と狙っていたのだ。
その為の最初の布石がユエリャン、そして唯一中央に残された一族の血筋―――ラクシャだった。
ラクシャの不遇は風に乗って辺境まで流れてきて、彼女に対する皇帝の今後の仕打ちをも想像させた。主はユエリャンを頭目として、ラクシャの懐に入り込み、彼女を隠れ蓑として反皇帝派を募るよう命じてきた。
ラクシャが使えるのであれば良し。使えぬ場合、そしてこちら側の思惑に気付き、「否」を示した場合には速やかに排除し、新たな宿主を探すよう付け加え。
主とて中央でひとり、迫害される姪が哀れでなかったわけではあるまい。しかし己の野心と大義、そして冷徹さを共立させることのできる男は、平然と姪を切り捨てる道を選んだ。
初めて顔を合わせたラクシャは、年に似合わぬ眼差しをした子供だった。姫という立場であるから、身なりはきちんとしたものだったが、彼女の黒い瞳は乾ききっていた。あらゆる感情が枯渇し、擦り切れた目にユエリャンはわずかながら痛みをおぼえた。
きりの良いところで「処分」してしまったほうが、それから先の辛苦を知らずに済む。それこそがこの哀れな子供に与えてやれる情ではないか。
そんな傲慢がユエリャンの口からラクシャに対する労りとなってまろびでた。
―――その時の場景は、今でもはっきりと思い出せる。
まるで砂漠に突然清水が湧き、緑が芽吹いたような。ラクシャの渇いた双眸は涙で満ち、次いで溢れ出た。
自身の変容に全く気付かないラクシャはしかし、己が泣いている事を理解すると、ユエリャンに飛びついた。細く小さな肢体は、ユエリャンがわずかに力を込めればつぶれてしまう儚さで、彼女が感情を殺しながらも、この身体で孤独を引きずり必死に生きてきた事を思い知らせた。
だが人間など勝手なもの。ユエリャンのラクシャへの情は、多忙かつ、ままならない日々で苛立ちへと変わっていった。
ユエリャンは自分がラクシャと表舞台に立つことで、他の同志を裏にまわし、自由に動けるように計った。それはいい。問題はラクシャの低能だ。
無能、とまではいかないものの、主の、その父の能力を間近で見てきたユエリャンにとって、ラクシャの能力の低さは予定外だった。
共に中央にやってきた同志たちはユエリャンに対し「ラクシャはろくに教育も受けてこれなかった子供なのだから、長い目で見るよう」と嗜めたが、四六時中あの娘の側にいる自分の身になってほしい。
戦術・戦略を理解しても人死にを嫌い、行使する事を躊躇する。戦場で嘔吐し、動けなくなる。初めて敵を討った時に喋れなくなった際には、あやうく怒鳴りつけそうになったくらいだ。
ここは戦場だ。生きるか死ぬかの世界で立ち止まれば、即座に敵に屠られて終いだというのに、なにを呑気に構えているのか。こちらは巻き添えを食うなど御免だ。
実際、ラクシャのおかげでユエリャンは幾度も死に瀕したが、どうにか彼女への悪態は放たずにすんでいた。
しかし勝利は確実、とされていた戦場でラクシャは撃たれた。鎖骨と右胸のちょうど中間。鎧を身につけていたおかげで傷は深くは無かったが、問題は矢尻に塗ってあった毒だった。
従軍していた軍医は皇帝の息のかかった者で、材料の譲渡すら渋られる有り様。解毒薬の調合には結局ユエリャンの同志が行ったものの、薬が投与された時には、後はラクシャの気力次第となっていた。
薄暗い天幕のなか、ラクシャの不規則な呼吸だけがユエリャンを現実に引きとめていた。
…同志たちの働きで、反皇帝派の人間は増加の一途をたどっている。すでに隠れ蓑の必要性は失われた。いっそこのまま―――
ユエリャンが伏せていた顔を上げると、簡易寝台の上から、ラクシャがこちらを見ていた。光は弱いが、焦点は結ばれていたように思う。剣を握るようになっても、いまだ肉付きの悪い腕がユエリャンに向かって弱々しく伸ばされ、色を無くした唇がもの言いたげに開かれた、直後。
彼女はユエリャンから顔ごと背けると、自分の腕を引き寄せ、目も口も閉じてしまった。毒に冒され苦しいだろうに、きちんと両手を鳩尾の上で重ねた姿はまるで、ラクシャがすぐそこに迫った死を受け入れ―――、ユエリャンを拒絶しているかのようだった。
椅子から中途半端に立ち上がったまま動けないユエリャンを、鈍器で殴られたような衝撃が襲った。
―――ラクシャは気付いているのではないか。自分が彼女の死を願っている事を。憎しみや、それに準じた感情ではなく、ただ煩わしいから、というだけで―――…。
峠を越え、奇跡的に毒の影響も残さずラクシャは生き延びた。後ろめたさもあり、ユエリャンは時間を見つけては彼女のもとに見舞いに訪れたが、ラクシャの表情はぎこちない。
甘い餌をぶらさげれば喜んで釣れるだろうと踏んでいた娘は、控えめな笑みを浮かべてユエリャンを労わるふりで―――、遠ざける。
ユエリャンは忙しいだろうから。無理をすることはないから。わたしは大丈夫だから。
最初の頃は、ラクシャの決まり文句を鵜のみにしていた。かつてユエリャンが姿を見せるだけで瞳を輝かせていた娘が自分を拒絶するなど、想像したことも無かった。
言葉遣いにも変化が現れていた。周りの目がある時以外は、少女らしい、すこし甘えた口調でユエリャンに話しかけていたというのに、丁寧だが性別を感じさせない話し方でユエリャンに応対する。
ユエリャンだけを見て、信じて、頼りきっていた子供は、いつしか彼の手から離れ、自分の足で歩きはじめていたのだ。
証拠に、それまで近づきもしなかった兵士たちにおずおずと声をかけはじめ、彼らに直接意見を求めるようになった。内心はどうあれ、ユエリャンが言った事は遵守していたというのに、兵たちの安全を第一とし、自身が泥にまみれる選択を降す。
低能で、皇帝に忌避され嘲弄される厄介者の姫は、けれど兵を駒として扱わない。地位が命の価値と比例する軍隊で、ラクシャの姿勢は徐々に反響を呼んだ。
ラクシャは聖人君子ではない。卑屈で臆病な、平凡な娘だ。他者が傷つく事をおそれるがゆえ、消去法で自分が危険に飛び込む決断を下しているだけ。それに気付かぬ愚かな兵士たちは、彼女の為に死地に身を投げ出す。
傍から見ればなんとも滑稽な構図は、だが戦を重ねるたび、彼らに確固とした絆をもたらした。
ラクシャは姫でありながら、宮廷で手ひどく扱われていたからか、身分の上下に鈍感な娘だ。そのため身分が低くても有能な者が自然と集まり、ユエリャンの立ち位置は揺らいでいった。
それでもユエリャンはラクシャの側から離れなかった。離れられなかった。せっかく自由になる機会を得たというのに、爪先は常にラクシャのほうを向いたまま。
自分自身の不可解な行動は、吐く息すらも凍りつくような北の地で氷解した。
ラクシャは寒さと雪が苦手だ。特に、真っ白な平原など見ると、不安でたまらなくなってしまうのだと昔こぼしていた。皇帝によって迫害されていた幼い頃になにかあったのだろう。
突然の吹雪をうち捨てられた石造りの砦でしのぎ、朝を迎える。当然周囲は一面の銀世界。平静を装っていたが、ラクシャの精神状態が不安定なのは従軍している者たちも理解している事。お飾りでもラクシャは指揮官という立場にある。将として使えなくても彼女の影響力は大きく、無理をさせて行軍させれば、最悪隊が乱れる可能性も出てくる。
兵士たちに休息させるという名目で雪解けを待っていると、特にラクシャに傾倒している兵のひとりが息せき切って現れた。一兵卒が畏れ多くも指揮官に直接声をかけるなど。他の隊なら考えられない事だが、ラクシャはそれを受け入れている。
彼に連れられたラクシャと付き添ったユエリャンが見たのは、砦の奥、浴室だっただろう場所に満ちた湯だった。
雪を使ったのだろうが、小さくはない浴槽になみなみと湯を張るなど、どれだけの労力か。しかもどこから摘んできたのか、行軍中見る事など無かった花まで浮かべた凝りようだ。
ユエリャンからみれば全くの無駄。厳寒の地で備えも無く湯を浴びれば、ラクシャが体調を崩す危険もある。
一喝しようとしたユエリャンの声は喉奥でつぶれた。となりで、ラクシャが泣いていたのだ。
兵たちの行いは、ラクシャの気分を盛り上げようとしたものに違いない。そして、若い娘でありながら、着飾る事も出来ず、汗と泥と血で汚れたまま戦場に立つことを余儀なくされた彼女への精一杯の気遣い。
「ありがとう」「気を遣わせてしまって、ごめんなさい」。泣きながら兵への感謝を紡ぐラクシャの姿に、ユエリャンは言葉を失った。
ラクシャは気の小さな娘だが、人前で泣く事など無かった。泣いたとしても、ユエリャンの前でだけ。
ラクシャの涙は、いや、彼女の信頼も好意も、ユエリャンのものだけだったのに。そんなふうに考えている自分に愕然とした。
彼女の存在は一時はその消滅すら願ってしまうほど疎ましいものだったのに。謀略と戦いしか知らなかったユエリャンにとってラクシャのぬくもりや、てらいない親愛は、無意識のうちに大切な拠り所として心の深い場所に沁みていたのだ。
なぜラクシャが自分から離れてから気付くのか。迂闊にもほどがある。
しかし自覚してしまえば、彼女を手放す事など出来ない。
ラクシャは愛情に飢えていた為か、好意を示されれば無下にはできない。ユエリャンは、距離を置かれたとはいえ、自分が未だに彼女の心の大部分を占めている事を理解していた。
ユエリャンが微笑み、真摯に見つめれば、ラクシャの踵を返しかけていた足は止まり、立ち竦んでしまう。できるだけ優しく触れてみれば、緊張に強張っていた肢体からはくたりと力が抜ける。そのさまは、ユエリャンをいたく満足させた。
本当に可愛かったのが、ユエリャンに一方的に恋慕する女たちをどうにか遠ざけようと知恵を絞っている姿だ。ユエリャンが他の女になびくなどありえないというのに、懸命に無駄な努力をしているラクシャにはたいそう煽られた。抱きしめて、口付けを雨と降らせてしまいたい衝動を堪えるのに、多大な労力を要したものだ。
自分とラクシャは例えるなら、蜘蛛と獲物だ。彼女は自分を蜘蛛だと思っているようだが、逆だ。獲物が逃れれば逃れようともがくほど糸は絡まり、他の事は考えられなくなっていく。ラクシャに抵抗する意思が完全に無くなってしまってから、足の先から大事に大事に喰ってやるとしよう。
だが上辺の悪辣さしか持たないラクシャに、戦場での心労に加え、他者を追いやる策謀は罪悪感をもたらした。結果不眠に陥り、束の間の休息を得るために酒に逃げる。
ここぞとばかりにユエリャンに逃げ込んでくればいいものを、臆病な娘は自己完結しようとしてさらなる悪果を招く。
改善の道を模索するユエリャンのもとに、主がついに蜂起するという報せが飛び込んできた。好機だ。
皇帝の命で遠く西へラクシャたちが赴いている間に主と同盟関係の者たちが中央に攻め込み、軍、宮廷を制圧する。今回の政変にはラクシャと麾下の者たちは関係ないと周囲に知らしめるため、この時期を見計らって。
一足先に中央に到着していた主は、政変の成功を確信していた。そのうえで、政変に加える事でこれまで苦労してきた姪に宮廷、軍での地位を確立する事をユエリャンに打診してきたのだ。
―――そんなことになれば、またラクシャを縛るものができてしまうではないか。
回り道をしてしまったとはいえ、ラクシャを残らず手に入れる為、ユエリャンは多大な我慢を自らに強いたのだ。忠義厚い腹心の顔で、言葉で提案を拒めば、主の鋭い双眸に名状しがたい光が閃いたが、彼は静かに首肯しただけだった。
獣並みの勘の持ち主である主君のこと。ユエリャンの淀んだ欲に気付いただろうが、使えぬ姪への情より、ラクシャを与えてユエリャンの歓心を買う事の方に利を見出したのだ。
…まったく、ラクシャの哀れな事。まわりにいるのは自身の欲望を優先する男ばかり。
思考を過去から今に引き戻せば、まんまと罠に嵌まった娘がなにも知らずにユエリャンの腕のなかで眠っていた。
中央に戻った時、ラクシャはどんな顔をするだろう。きっと途方に暮れるだろう。そしてますますユエリャンに心を傾ける事が容易に想像できる。それは心躍る光景だ。
もう酒も必要あるまい。ラクシャが戦場に経つ事も、他の女に気を尖らせることも無くなるのだから。
酒ではなく、ユエリャンに溺れ、狂っていけば、これ以上の事は無い。
その為の謀は、すでにラクシャの足下に山とばらまいてある。